小説 井戸のある家
その家には井戸があって、女がよく水をくみ上げていた。庭の端っこに古びた方円形の井戸が据えられており、女は滑車をゆっくりと引き上げて、水をくみ上げた。
水はどこから来ているのか。村の背後に連なる山々から地下水が流れてくるのかだろうか。
もう村に井戸は少なく、女の家を含めても数軒しかない。もちろん、村にだって水道が普及していて、井戸水を使うにしたって、もう少し便利なくみ上げ型をする方が便利だ。しかし、女は井戸に向かい毎朝井戸から水をくみ上げるのである。
ある男が来た。その男は、大学の文化研究者であり、そこら一帯の文化を調べに来ていた。
男は山に分け入り、そこに関連する人々の信仰を調べていた。この村の背後にある山には、少し入った所に大きな岩が据えられており、それを人々は「お岩さん」と読んで、敬った。そのような土着の民間信仰を調べるのか男の目的だった。
ある時、調査の帰りに村によったら、男は、井戸のある家を見つけ、興味をそそられて、その場所へやってきた。
研究者という性分で、気になったものは調べずにはいられないものであり、それは、この井戸に関しても同じであった。
井戸はとても立派で、屋根もあった。どんな水なのだろう。どんな歴史があるのだろう。
男は興味を持って、水をくみ上げて、一口飲んだ。おいしい水だった。こんなおいしい水があるとは。水に興味を持たなかった男だが、そのことを後悔したくなるほどにおいしい水だった。
男が水を飲んで一息つくと、女が家から出てきた。男は背後の女に気づくとはっととびあがり、思い出したように会釈をし、自分の素性を明かした。女は無言で聞いていた。男は「井戸の水を持ち帰ってもいいか」と聞いた。女はしばらく考え込んで首を縦に振った。
男はペットボトル一杯の水を家に持ち帰った。
家にかえって、男はその水を飲んだ。ペットボトルの中にある水はこれ以上ないくらいに澄んでいて、光をいくつも反射させ、きらきらと輝いていた。
おろしたてのスーツのような純粋さを醸し出す水を一気に飲み干した。おいしい水だ。山の恵みなのか。井戸の水とはそもそもこういうものなのか。
ふと、男の脳裏に女の顔が浮かんだ。黒い髪、細い目、すらりと長い手足。無性に男は女に会いたくなってきた。そして、無性に井戸の水が飲みたくなってきた。情欲以上に、あの水を欲している自分がいた。
男は翌日も調査帰りに、女の家にいった。井戸は変わらずそこにあった。女が水をくみ上げているところであった。女の生活には、この井戸の水がある。
そんな古風な人間いるのだろうか。このご時世に。いや、そんんあことはあるまい。いくつもの思念が男の中で沸き起こった。しかし、どれも、明確な答えを持つにはいたらなかった。
男は女に言った。井戸の水がおいしかったので、また飲みたいと思ったこと。それゆえに間を置かずにこの家にやってきたこと。男の言葉にはいような熱が入っていた。女はその様子をじっと聞いていた。
女は、「お水は、いくらでもくんでいってかまいません」と言った。
男は歓喜した。調査で疲れた体に水が染み渡る。男は井戸の水をそのまま口にした。生の水が体にしみる。
男は空腹だった。不意に、おなかが鳴った。ちらりと女を見るとその音をしっかりと聞かれたようであって、女は気を利かせてか「お食事でも、いかがですか一人で食べるのなんですし」と言った。
若い女性の家に入り込むのは久しぶりだ。男にはかつて妻がいて、息子がいた。今、二人は家を出ていってしまっていた。俺が悪かったのだ。きっとそうだ。男は自分にそう言い聞かせている。
あらゆる場面で自分が悪い。自分の責任を追及すればすべてがうまくいく。どんな誹謗中傷も自分が受ければいいのだ。それで、世界が回っていくのであれば。
男の情欲は、女の肢体が目につくたびに刺激された。女を求めている自分がいた。考えてもみれば、出会って間もない男家に上げるだろうか。何か彼女にも気があるのではないか。そう思う度に、自分の中に沸き起こるその虚妄を消すために躍起になっていた。
男はあたりを見回し、気をそらした。家の中は実に古めかしい空間が広がっていた。時代がまるで違う。ここだけ昭和が残っている。昭和、いや、もっと前の時代のような気がした。
女が料理を出してくれた。味噌汁、鯖の味噌煮、小松菜の煮浸し。どれも男の舌によくあった。女はお酒をついでくれた。何から何まで女はしっかりと男をもてなした。
男は気分もよくなってそれを飲んだ。飲んでいるうちに気分はさらにあがり、口も緩んでついつい自分の過去について語った。俺は、何を言っているのだろう。俺はいったい。
過去を引き上げても、何も良いことはない。井戸水のように、おいしく飲めるものばかりではない。
女は黙って男の話を聞いていた。「人にはいろいろ過去がありますからね」と女は最後にぽつりと言った。
時間を経ると、すっかり酩酊してしまって男はふらふらになった。千鳥足で、歩けたものではない。世界がぐるんぐるんまわって、数歩歩けば、そこに座り込むほかないといった有様だ。
「ここに泊まると良いでしょう」女はいった。男は、もうろうとする意識の中で女の提案を受け入れた。
そのまま男は眠りに落ちた。暗い世界に落ちていくのを感じた。
目が覚めた。時計を見えると、夜中の三時だった。まだ酔いが残っている。飲み過ぎた。水が飲みたい。男はそう思った。井戸へ行こう。男は廊下をするりと抜けて夜の闇に徐々に目をならしながらゆっくりを玄関へと向かった。
音を立てないように靴をはき、そろり、と引き戸を開け、外に出た。月がまぶしい。庭の端に井戸があり、闇の中に据えられた井戸は、吸い込まれそうな恐怖があった。
男は、井戸に近寄って、井戸の底を見た。井戸の底はまっくらだった。世界の終わりのような気がした。油断すれば、吸い込まれる。そして、吸い込まれたが最後、二度と出てはこれない。
男は綱を引き、井戸底に据えられた桶を引き上げた。ゆっくりとゆっくりと、力強く桶を引き上げて、引き上げるとこぼれないように地面に据えて、両手で水を掬い上げて飲んだ、おいしい。男の中に残った酔いがはっきり彼方へと飛んでいった。
もう一度。男の壊れた報酬系が、次の水を望んだ。男は一度、桶を井戸底に沈めて、改めて、引き上げた。不思議だ。とても重い。先ほどの水の重さではない。何かが、引っかかっている、何かが乗っかかっているような、そんな感じだ。
男は満身の力を込めて引っ張った。酔いもはっきりと醒めた。あるのは、水を飲まんとするその意志だけであった。
男は綱を引いた。最後に思いっきり、力を入れ、桶を引き上げた。何か様子がおかしい。暗闇中、月の光を頼りに引き上げた桶を見た。そこには人の手があった。
人が桶にぶら下がっている。黒い髪に、赤い着物、女の子だ。小さな女の子がそこにぶら下がっていた。濡れた髪から、滴が垂れて、顔も濡れて、そして、鋭く細い目で男を睨んだ。
女の子と男は目があった。女の子は、素早く井戸から飛び出し、そのまま夜の闇の中へ消えていった。
男は呆然とした。緊張で体が動かなくなった。再び意識が朦朧としてきた。立っていられなくなった。
男はそこで気を失って倒れた。翌朝、近所の人間に倒れているところを発見され、病院に運ばれた。
後日、その家を訪ねたが、女に会うことはできなかった。何回いっても留守だった。人が住んでいる様子もなかった。井戸だけがそこ残されていた。
不思議に思って、村の人に聞いてみると、そこは何年も空き家で人は住んでいないという。
「そんなことはない。自分はそこで女性に会って、食事を食べさせてもらった」
男がそう言うと。その人は、急に真剣な表情になり、過去について語ってくれた。
「昔、そこに家族が住んでいてね。随分前の事だ。でも、ある日、その家に強盗が入ってね。家族は殺されて、娘は井戸に投げ入れられて、そのまま亡くなった。まだ、小さかったね。そんなことがあった。井戸だけが残されているけどねえ。気味が悪くて誰もあそこの井戸は使おうとしないよ」
にわかに村人の言葉を信じることはできなかった。俺が会った女性は誰だったのだろう。そして、井戸の底から出てきた、あの、女の子は。
あの女の子は、村人の言う殺された女の子だったのだろうか。
その女性が、ずっと、あの家に住んでいたろうか。この世のものではなく、あの世のものとして。
「あなた、水を飲んだんじゃないかい?」
去り際に、村の人が言った。それで、あの世の人間と交信することができるようになったんじゃないか。そう言った。
確かに俺は、水を飲んで、直後に女性を会った。
男はその時の様子を思い浮かべた。気づくと、女性は背後にいたのだ。
あの女は、幽霊だったのか。小さい子が、そのまま大人になった姿。彼女は、霊魂として、生きて、大人になった。分裂した魂を、井戸の底に残して、片割れだけが、大人になった。
その子を俺は引き上げてしまったのだ。
あの子はどこへ行ったのだろう。
それから数日後、村で変死体が出た。それは、村の村長で、部屋の中でなぜか窒息したまま死んでいて、死因は溺死だった。
家族が後に村長の蔵書を調べていると、中から日記が見つかり、自身の過去の犯行についての記述がなされていた。借金で、お金に困っていたこと。強盗である一家に押し入り金品を奪って、家族の命を奪ったこと。娘にも顔を見られたから殺害し、井戸の底に沈めたこと。
村長の家族は、それらの日記をすべて燃やした。真実は記憶の中にのみ残され、他はすべて消えた。すべてはただの燃えかすとなったのだ。事件は迷宮入りしたのだ。
男は井戸の底から真実をつり上げたのだ。そして、あの世から彼女の魂までを呼び寄せ、その魂が、犯人を殺害した。そんなことが可能なのか。あの夜の、女の子の目を覚えている。鋭い、あの目。
そして、料理を出してくれたあの女性の、穏やかな、表情。
男は改めて、女の家を訪ねて、井戸の前に立った。井戸は世界の底にまで通じているような気がした。井戸の中は暗く、そして、冷たい。そこはこの世のものではなく、閉ざされた世界の象徴のようなもののような気がした。
家が撤去され、井戸も埋めてしまったと聞いたのはそれからしばらくしてからだった。男は何かに導かれるままに、かつて家があった場所へと行った。そこは何もない更地だった。かつてそこに「何か」があった。その記憶だけを大地の上にとどめているに過ぎなかった。
家のあった場所には、女の髪飾りが落ちていた。いつか見たものとはまるで違って、色は剥げ落ち、いくつも傷がついていた。男はそれを拾い上げ、ポケットにしまった。
実体とは、俺の記憶の中さえあればいい。男は小さくつぶやいた。
彼女は、向こうの世界に戻ることはできたのか。それとも、永劫にこの世界を影のまま歩き続けるのか。村の背後の山々が男を見下ろす。村の人々は、死者への手向けとして、お岩さんへの御礼を行うのではないか。
些末な学術的な分析はとても陳腐なものに見えた。鋭利な分析が、誰を救うことができるだろう。
男はかつて井戸があっただろう場所の上に立った。そこは、冷たく、今にも世界の底に引きずり込まれそうだった。
彼女は、生きていた時の喜びを家に残して、死に際の憎悪を井戸の底に残したのだ。喜びは、一人の女性としての生活を描き、そして憎悪は復讐を遂げる女の子を生み出した。
少女は冷たい世界から、影として、この世に舞い戻り、現世で復讐を遂げた。
それで、君は、救われたのか。君はそれで満足だったのか。
誰も答えてはくれない。
男は女の表情を思い浮かべようとした。しかし、どれだけ頑張っても彼女の顔を思い出すことができなかった。
男はその場所を去った。二度とこの村に来ることはなかった。
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