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小説 月読の詩 第2話「二人の明日」

 アヴリエは羽織った衣服を次々と脱いだ。一枚衣をはがす度に村のために背負った重責までもが抜け落ちていくような気がした。

 最後、彼女は村娘がいつも着る薄地のワンピースだけになった。村の女は大概この格好で家事を行う。日常の自分の姿だ。

 私たちの日常は遠い地平の彼方へと行ってしまった。
 アヴリエは自分の肌を見た。色白の肌は、世相の無知を思わせた。無垢と無知は、場合によっては同義である。

 不安がないといえば嘘になる。しかし、それでも生きていかなければならないのだ。アヴリエは衣服を器用に畳み、風呂敷のようにまとめた。

 山の向こうから朝がやってきた。森は息づき、大地は歌う。鳥たちが空を抜けていった。

 コルトマは川辺で腕を洗っていた。どれだけ丁寧に洗っても、絡みついた血を落とすことはできなかった。血は変色し、黒いシミが腕に残った。

 血に潜む魔物。それは憎しみを餌にする。俺は、人を殺めた。動物を殺めたのとはわけが違う。明日を生きるために、手を下したのではない。俺は、彼女を守るために人を殺めなければならなかったのだ。

 昨夜の出来事が蘇る。すべての映像が一瞬一瞬切り取られたかのように思い出すことができる。村長の目、その怒りの形相。男の体を銀のナイフで突き刺した時の奇妙な感覚。すべてが、夢の中で行われたような気がした。

 生きるための殺生は肯定される。ならば、昨夜の俺の行動は。あれは、生きるためだったのか。彼女を守るため。その正義は、自身の憤怒を正当化するための後付けの理由ではあるまいか。

 俺の怒りは、あの時、村の制度に向かい、月読の孤独に向かい、そして、村長の殺意に向いた。手を下したのは、俺の右手だ。俺の右手を動かしたのは俺の憎しみなのだ。
 
 しかし、その憎しみは彼女を守るために必要だった。だが、あの時、俺の心は躍動していた、命のやり取りの中、小さくはない興奮が、自分の中に沸き起こっていたのだ。

 思考がぐるぐると回った。静かな朝の中ですべての事象を整理することはできなかった。何も考えたくなかった。しかし、考えないわけにはいかなかった。

  村の掟が、月読としてのアヴリエを生贄にするとするならば、もう村に残ることはできない。ましてや、自分はまがりなりにも村長を手にかけている。そして、魔物に侵されたこの腕。

 川から腕を抜いて、空に掲げた。醜い腕だ。憎しみに囚われた腕。弱さの象徴だ。腕に水が滴る。血は体に染みついて離れない。

 アヴリエが川辺へ来た。男は腕を下し、女を迎え入れた。
 そこにはいつも通りのアヴリエがいた。昨夜、その表情を捉えることはほとんどできなかった。

 コルトマは昨夜、彼女を抱き寄せたことを思い出した。アヴリエもそのことを思い出した。必死の行動のさなか、安堵の隙間に起こした行動について、後になって急激な恥ずかしさを覚えた。

 特にコルトマはアヴリエの顔をあまり見なかった。アヴリエもなんとなく気恥ずかしそうな面持ちを浮かべながらも、動揺させまいとして気丈に振る舞い、声高にしゃべるようにした。

 アヴリエの平生の明るい調子を見て、なんとなくコルトマも普段の感覚を取り戻したと見えて、今までの緊張をさっと川に流したように、揚々と話し始めた。

 早く祭儀堂から離れなければならなかった。村人はすぐに異変に気付くだろう。そして、追手がやってくる。月読を連れ戻しに。村の掟は、正しく遂行されなければならないからだ。

 二人は対話を楽しむ余裕もないまま、すぐにその場を離れた。今はギルベ川付近。祭儀堂からまだそれほど離れたわけではない。

 完全に朝がやってきて、すべてが始まる前に俺たちは進まなければならない。コルトマは歩みを進めた。幸い、まだ鳥たちしか目覚めてはいない。

 祭儀堂から見て、西の森に魔女が住んでいるという。アヴリエの話では、月読の修練の際に、森の中で偶然魔女と出くわしたらしい。

 その時、アヴリエは先導とはぐれ、道中で道に迷い、一人でとぼとぼと森の中を歩いていた。そんな中、一匹のウサギが通り過ぎ、アヴリエの前に現れた。
 
  ウサギの背後には肉食のアマネコがいて、どうも追われているらしい。とっさの判断でアヴリエは足元にあった石を何個も投げつけた。一つが偶然、アマネコの体に当たり、当たり所が悪かったか、予想しない攻撃が来て驚いたのか、アマネコはそのまま逃げだし、林の中に姿を消した。

 ウサギはその場にうずくまり、動かなくなった。逃げ回り疲労がたまったのだろうか。アヴリエがウサギに近づいて様子をうかがおうとすると、ウサギの体は突然風船のように膨らんで、最後にはパンと破裂した。

 瞬間、ウサギの体はどこかへ消え、そこに一人の老女が表れた。魔女だ。アヴリエは思った。自分は迷っている間に魔女の森に来てしまったのだ。

 村の人間は魔女の森には近づいてはいけないと口を酸っぱくして言った。過去、魔女の言葉に惑わされて破滅していた為政者は少なくない。屈曲した言葉を述べる魔女を、信頼する人間は誰もいなかった。

 危なかったよ。魔女はそう言った。力尽きてそこに座り込んだ。魔女の存在に身構えていたアヴリエは虚を突かれ、思わず緊張の糸を緩めた。
「おばあちゃん、大丈夫?」 
 アヴリエは声を掛けた。魔女に違いないと思いながら、内心ただの疲れ切った老婆にか映らなかったからだ。演技でもないその疲労の様子を見るに堪えかね、声を掛けたのである。

「変身の術で、ウサギになって遊んでたら、まさか突然魔力が使えなくなっちまうんだから。今日が新月の夜だと忘れてたよ。参った。おかげでアマネコに追いかけられる始末さ。ウサギのまま死んだなんて、死んでも死にきれないよ。あの猫はどこかでぶっとばしてやるからね」
 魔女は息を整えながらも自分の陥った窮状を丁寧に解説した。 

 アヴリエはウサギを救ったつもりが、期せずして魔女を救っていたのだった。魔女は、肉食獣にも果敢に向かったアヴリエにお礼がしたいといって、彼女の家に招待したのだった。

 魔女はアヴリエのことを月読だと知ると大層驚いた表情で、月読の巫女なのに獣と戦うのかい、と言った。

 アヴリエは後になって肉食の獣に石を投げるなんてとんでもないことをしたと思った。震えが止まらなくなった。魔女はそんなアヴリエを大層気に入り、その日は大変丁重にもてなした。

 それ以来、アヴリエと魔女の交流が始まり、時折伝書鳩を飛ばし、魔女に手紙にて近況を知らせていた。もちろん、これは村の人間には秘密だった。


「あの人なら、私たちをきっと助けてくれるはず」
 コルトマ一行は西の森へと向かった。西の森にはかつて大きな都市があったが、戦火に崩れ人が去り、次第に森林が増殖しその都市を覆った。

 木々がいたる所に生え、弦は縦横に伸び、かつて都市だった場所は荒れ放題だった。そこらへんに遺構が顔を覗かせ、今もかつての生活を覗き見ることができる。
 
 かつて、いくつもの戦乱があった。そうコルトマは父から習った。父は博学で、世界の多くに知悉し、その知りえた言葉を、夜な夜な息子に語って聞かせた。

 父はどうしているだろう。コルトマは父の事を思った。失踪した息子、消えた月読。二人の動きを村人が追及しないはずはない。もしかすれば、あらぬ嫌疑をかけられて父は、裁判に掛けられるかもしれない。裁判に掛けられれば、有罪になる可能性は高い。

 遺構周辺を抜けると、そこには原生林が迎える。力強く伸びた木々を見上げても空はほんのわずかしか見えない。この森の中に魔女が住んでいる。

「魔女は、どこに?」
 コルトマはアヴリエに尋ねた。しかし、場所はわからないという。
 魔女の家は毎回変わる。同じ場所にあるのは間違いない。でも、それが表から見えないようになっている。それが魔女の家なのだと。

 コルトマはアヴリエの話を聞いて、深くうなずいた。なるほど、確かにそうだ。魔女が自分の居場所を簡単に人に教えるとは思えない。

 旧時代、魔女と言われる存在の多くは、魔女裁判に掛けられ、処刑されていた。磔刑ののち、魔力を消滅させるために体を焼かれた。戦乱が収まり、新時代になって以降、魔女は人前から姿を消し、ひっそりと過ごすことになった。
 
  村では、魔女は忌避すべき存在だといわれる。しかし、本当に忌避すべきは人間の心の中に住まう邪悪なのだ。

 コルトマは父の言葉を思い出した。心の中に住まう邪悪。俺はその邪悪に翻弄されているのかもしれない。その呪いが俺の腕に刻み込まれている。

 二人はしばし森を彷徨って、魔女の家を探した。太陽が高い時分である。しかし、森の中に届く光はわずかで、森は水を多く含んでいた。ひんやりとした空気が体を包む。

 岩陰にふと気配を感じ、コルトマはナイフを抜いて、構えた。アヴリエはコルトマの影に隠れて、事の動向をうかがっていた。ピュリターが出てきた。温厚な動物で、人を襲ったりすることはない。

 大したことないな。コルトマはやや構えを下げたが、ピュリターは額から伸びる角を向け、体を深く沈めて力を溜めた。突進してくるつもりだ。やや反応が遅れた。

 再び、コルトマが構えを取った時には、もうピュリターは勢いよく二人に迫ってきていた。かわせない。もしも、かわせばアヴリエが危ない。コルトマは覚悟を決めて、攻撃を受けようとした。反射的に目を閉じた。しかし、攻撃はやってこない。何かがおかしい。

 コルトマはゆっくりと目を開けた。そこには、倒れたピュリターがいた。ピュリターの大きな体の上には、一匹の白ウサギが乗っていた。

「あ!」
 アヴリエも目を開け、その様子を見た時に思わず声を発した。まさか、このウサギが魔女なのか。コルトマはウサギを見た。ウサギはピュリターの上でぴょんぴょんと跳ねている。そして、数回目のジャンプの時に大きく跳び上がり、そのままくるりと宙で回転したかと思えば、すぐに一人の老女の姿に変身して、地面に着地した。
「久しぶりだねえ、アヴリエ」
「アンナさん!」
 魔女はアンナといった。もちろん、それは偽名である。魔女は本名を明かさない。名は悪用されることが多い。魔女の間では、真の名前は夫婦の間でも隠すという。アヴリエに本名を明かさなかったとしても特別不思議はない。

「これは、あなたが?」 
 倒れたピュリターを見ながら、コルトマは尋ねた。ピュリターは力なくうなだれ、しばらくは立ち上がらなさそうに見えた。
 アンナはうなずいた。

「ちょっとした力を使えば黙らせることくらいわけはない。ただ、命までは奪わないけれどもね」
 アンナはちらりとコルトマのナイフを見た。コルトマは何かを察し、ナイフを鞘に納めた。

「しかし、おかしい。森が騒がしい。今までにないほどに森が震えている。ピュリターも本来なら人なんて襲いやしない。臆病なんだ、こいつらは」
 アンナはピュリターの体をさすった。その目は慈愛に満ちていた。コルトマは魔女と初めてあったが、彼が思い描く魔女のイメージとはだいぶ違っていた。

「獣が騒がしいのは、あなたの、血の臭いのせいだね」
 アンナはコルトマの腕を見ながら言った。コルトマも改めて自分の腕を見た。何度見ても気持ちのよいものではなかった。腕に残った黒いシミがより濃くなったような気がした。

 なるほど。なるほど。アンナはコルトマの腕を見ながら小さく何度もうなずいた。
「豊穣の儀、か」
 アンナの目はすべてを見抜いていた。アヴリエもコルトマの同時にうなずいた。

 なるほど。なるほど。アンナは口癖のように何度もそう言った。
「話はあとで聞こう。家へ来なさい。疲れているだろう。ご馳走するよ」
 アンナはそう言った。

 二人は空腹だった。しかし、それを言葉にするにはどこかこそばゆく互いに我慢していた。
「それは、嬉しい」
 アヴリエがそう言った時、彼女のお腹が鳴った。
 アヴリエは赤面し、コルトマは笑った。
 

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