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小説 乾いた城の中で

 雨が上がって、太陽が注ぐと、山間に一つの城が見えた。山林を二日も迷った男にとって、その城は希望に見えた。助かった。男は素直にそう思った。

 尖塔が鋭く伸び、城壁が高くそびえ、その威容は周囲の森林とはまるで溶け合わず、不似合いだった。城全体を壁が囲い、何者の侵入も拒否しているように見えた。なぜ、こんなところに城があるのか。男は何も考えずに城へと向かった。物事を冷静に考える余裕はなかった。

 男が山に入ったのは6月の終わりだった。日付はもう7月になった。一人の力を恃んで山に入って、すぐに迷った。男は幼少から山と共に過ごした。山はいつでも彼と共にあり、山は彼の領域だった。

 男は山を信頼したし、理解もしていた。一つだけ間違いがあったとするならば、山は男の信頼を簡単に裏切る存在なのだという事実を男が知らなかったことだけだった。

 これは僥倖とばかりに男は城へ行った。巨大な門扉を開き、すっと域内に入った。人影はなかった。それはそうだろう。こんな山間の中、人が住む城があるとは思えない。誰がこの城を作って、その城を残したか。そんなことを考える余裕もなかった。今は雨風をしのげる場所があればよかった。

 しばらく庭が続き、そして、城本体が見えた。近くで見るとことさらに大きく、男は思わず息を飲んだ。木製の扉を開き、中を覗いた。静寂が漂う。人はいないようだ。
 
 人がいないと思っていても、妙に警戒してしまうのが人の常だ。男もその予想にたがわず、慎重に呼吸を殺して歩みを進めた。エントランスホールには、たくさんの窓があり、外界からの採光を潤沢にしていて、室内とは思えないほど明るかった。
 エントランスホールの中央には大きな階段があり、中途で二股に分かれて、二階へと続いていた。何年も人が使っていないのだろう。そこには埃が積もっていた。

 風の流れを感じる。どこかの窓が開け放しになっているのだろうか。男は流れる風の中に不意に奇妙な感覚を覚え、二階を見た。 
 
 二階に人がいるのに気づいた。人がいるとは夢にも思わなかった。男は、瞬時息を飲み、言葉を失った。女が男を見ていた。二人の視線が交錯した。
 
 誰もいないと思ったのに。こんな立派な城を管理していない人が誰もいないというのも考えてみればおかしいかもしれない。男は倒錯する思考の中、自分の素性を明かした。
 
 自分は趣味で登山に来たこと、二日前に道を違え、森に迷い込んでしまったこと。そして、たまたまこの城を見つけ、雨風を防ごうとして立ち寄ったこと。

 女は何も答えなかった。表情を殺したまま、城の奥へと消えた。男は階段を駆け上がり、女を探した。城がどれほど広いのか見当もつかなかった。

 男はただ、彼女を追いかけていった。女はどこにもいなかった。ただあるのは、廃屋と化した城の姿だけだった。廊下も、どの部屋も、荒れ果て、人が住んでいるようには思えなかった。

 埃ばかりが男を歓迎した。よくわからない虫もいた。静かな。外観からはこの内装の乱れを感じることはできないだろう。時間が、この城を荒廃させていったのだ。

 一際、綺麗な扉があった。この扉の向こうにあの女がいるのだろう。男はそう察した。扉をゆっくりと開ける。その部屋は他の部屋と違って壮麗な部屋であった。

 美しい調度品に囲まれ、確かな生命力を携えていた。女は窓際で、椅子に座りながら本を読んでいた。女は男に気づいて、すっと立ち上がった。女は男を見た。しかし、言葉を発することはなかった。

 長い髪、茶色い瞳、そして、緑のワンピース。軽やかな夏の装い。女は男を見ていた。視線以外に手段を持たないかのように。この人は、この世の人間ではない。男は事実を悟った。君はなぜ、ここにいるのか。君は、誰なのか。

 女は男に近づいた。瞳は潤んで、今にも泣きそうに見えた。男は言葉を持たず、彼女を見つめた。女は無言のまま男に抱き着いて、男に体を預けた。不思議なほど彼女の体に重さはなかった。耳元で女が小さく囁いた。その言葉をうまく聞き取ることができなかった。

 女の体はそのまま溶け出しいった。そして、風景と重なり、男の体の隙間から流れ落ちていった。男の意識もそこで消えた。抗うことのできぬ力で、男の意識は引きずりこまれた。

 気づけば、男は山の麓で倒れていた。近くを通りかかった人が、彼を救出し、病院へと連れていった。男は衰弱していたが命に別状はなかった。

 男は退院後、山間の城について人々に聞いた。誰もその城を知るものはいなかった。彼は後年、再び山に入り城を探した。しかし、ついぞ城は見つからなかった。

 山から下りねばならない。思い立ち、歩き始めると、木陰にあの女がいた。見つけた。いや、見つかるのも変な話だ。だって、あれはこの世の人間ではないのだから。女は再び姿を消した。男は彼女を追いかけた。

 しばらく山をくだって、獣道の脇の拓けたスペースに彼女はいた。男が追いつくと、女は男の顔を見て、目の前にある木を指さした。女は笑みを浮かべていた。何かに安堵してような表情だった。そして、女は消えた。

 城も見つからず、女も消えた。男は何も見つけることができなった。それから数年経った。

 不意に、インターネットで女の顔を見た。女は行方不明者として登録されていた。行方不明。
 男は、警察に連絡をした。事の顛末を話したが、警察は相手にしてくれなかった。しかたがないので、女の両親に相談すると、話を聞いてくれた。

 女の父が、地元の人と協力して、山のあの大きな木の近くを掘った。そこからは一人の女性の遺体が見つかった。女の父はすぐにそれを娘と見抜いた。そして、その場で崩れ落ちた。

 女の父は泣いていた。男は言葉を発することができなかった。彼女が、僕を助けてくれたのか。自分を地下世界から救いだすためのメッセンジャーとして。

 女の父曰く、幼い頃にヨーロッパに旅行に行った時に、城へ遊びにいったという。それが印象に残っていたのではないか。その記憶が、堅牢な城を作り出し、彼女の魂を幽閉したのだと。誰かがその城を訪ねてくるのを待っていたのではないか、と。

 女の父は、創作とも似つかぬ男の話を信じていた。最後の娘の様子を聞きたがった。最後は笑っていた。そう伝えると、再び父は泣き崩れた。

 
 女の元交際相手が逮捕されたのはそれから間もなくのことだった。男は耳を澄ましてそのニュースを聞いていた。

 女の魂は乾いた城の中を彷徨っていたのだろうか。自分の無念を晴らすために。長い時間、一人であの城の中で。それは、彼女を幸せにしたのか、長く苦しめただけなのか。

 答えはなかった。彼女が救済されたと信じるほかなかった。

 男は、それ以来、一度も山へ行っていない。
 

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