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大切な人が亡くなって辛いあなたへ。私が初めて家族を亡くした5歳の時から、どう今の死生観になったのか。

初めて家族が息を引き取った記憶は、5歳の時。今でも鮮明に覚えてる。

私達家族が、大好きな物心付くまで私達が住んでいた土地を離れて、母の実家に引っ越したのは、祖母の体調不良が理由だった。

その祖母は、母の実家の病院に入院し、私達家族は病院のワンフロアを改造した所に住んだ。

言葉も文化も違う土地。しかし、友達は直ぐできて楽しく暮らしていた。

なんだろう。C1000のあの炭酸が効いた黄色い瓶のドリンクを祖母がくれたが、いつも子供だからと半分しか飲ませてくれない。

何かの瞬間に、たかが5つの私は「死ね」って思ってしまった。語彙が少ない餓鬼が、おやつをもっと食べたいとか、ジュースをもっと飲みたいとか、それを妨害して欲しくないというどうでもいいワガママが間違った一言に集約された結果だ。

shit とか、fuck とか悪い言葉がある方が、それの代理に「死」を含む言葉が軽々しく出てくるよりもタチがいいと、今では思う。

祖母はピアノを教えてくれて、とても優しかった。ただ、チーズは拒んでも食べさせたが、一個まで。C1000も自分から飲むように促すものの、半分まで。栄養大学を出ており、戦争を経験していたからこそ、孫にとって最善の食・栄養を与えるためとは言え...

そして、闘病の末に祖母は亡くなった。

その時父に聞かれた。「曾祖母が亡くなった時のこと覚えてる?」

私は当時「覚えてるに決まってるじゃん!」と思ったことだけは覚えている。

「もう会えなくなったんだよ。」

それも、何故そんな当たり前のことを言われるのか分からなかった。五歳といえど、子供は大人が思っている以上に頭はしっかりしているが、本人が思っている程にはしっかりはしていないのかもしれない。この説明があったことに、今では感謝している。(なんて生意気な子供だったんだろう。いまでも生意気で意地っ張りなのは幼少期と変わらない。)

小学校1年生の夏。それは私が6歳の時、従姉妹の家で夏休みを過ごした。幸せな夏、楽しい思い出が溢れる一夏だった。

遊びたいのに、片付けをしてからと叔父に命令され、またもや「死ね」って思ってしまった。

これも、語彙不足。普段は飛行機で行かなければ会えないほど遠くに住んでいる従姉妹と一緒に遊びたい。もっと沢山一緒にいたい。それを邪魔して欲しくない。そういう感情が、「死ね」の一言になってしまった。恐ろしい。死んで欲しいなんて微塵も思っていないのに、言葉って本当に恐ろしい。

同年9月。自分の住む地域に戻り、学校が始まり楽しく過ごしていたある日、叔父が亡くなった。突然死だった。家族の誰も予期しておらず、6歳の従姉妹は父親を失った。

私は、これで2度も「死ね」って思ってしまった相手がその後直ぐに亡くなったことになる。偶然だろう。しかし、キリスト教として育てられていた私は、神様の存在を幼少期から信じていた。そして、自分が死ねって思うと人が死んでしまうということを幼少期に二度も経験し、二度と誰に対しても「死ね」なんて思わないと誓った。そして、もし思ってしまったら、必ず頭の中で「神様ごめんなさい。本当に死んで欲しいなんて思ってません。」とその誰かが死なないように念じる癖がついた。

自分が殺したとは思っていなかったが、こういうパターン認識をしてしまった。いや、「自分の思いで誰かが死ぬわけがない」とは思いながらも、必ず「死」を含む言葉が頭に浮かんだら、撤回する7歳にも満たないガキンチョになった。

その後も、小学生の時の友人が亡くなり、中学生の時も家族が亡くなった。

無口だが、私を凄く好いてくれていると分かる祖父。普段は海を隔てた地に住んでいた私達家族。余命をとうに越して生きていてくれた祖父は、私が冬休みに海を渡り、一緒に時を過ごしてから、彼の子供達とその一人の子である私に見守られて生きを引き取った。

点滴が繋がれ、まだそれが流れているということは、血流が止まっていないと思った私。いくつもの小さな気泡を中指でデコピンのように弾き続けた。

最後は、家族が「もう時だ」と、私を祖父のベッドへ引き寄せ、皆で楽しい昔話に花を咲かせる中で、祖父は息を引き取った。

下の病院のカフェテリアへ行った叔母と私。私は、泣けない自分は冷徹な人間だと感じた。

しかし、楽しかった祖父との思い出が頭を巡り、「不公平だ!」そう何度も繰り返して、祖母の腕に立ったまま顔を埋めて泣く私に、「大丈夫よ」と繰り返す祖母。

家の家系は口下手だ。

皆本当に口下手だ。何を「不公平」といっているかも語っていないし、何が「大丈夫」なのかも語っていない。言葉が何一つかみ合わない中、お互いの思いは通じていた。

その後も友人は亡くなった。

自分と仲良くなる人は、短命な人もいる。が、そこに因果関係を感じることはなかった。そう。自分が病気になるまでは。

註釈)長生きの友人も、同年代の友人も世界中に沢山います。ただ、亡くなる者とでも、最期まで分け隔てなく友情を大切にし続ける性格なんだと思います。ただ、知り合いの輪が大きく、絶対数では多く感じても、比率は皆と変わらない可能性もあるかもしれません。

そして、自身と同じ病気で、抗がん剤治療前に色々教えてくれた同室のお姉さんみたいな存在の人が亡くなった。

なぜ自分は生きることができたのに、彼女が死ななければいけなかったのだろうか。

「生」どこかそれに罪悪感を感じる面と、

「良い人は短命だ」と死をどこかで美化する面と、

その「生」にしがみつく面と...

そしてやっぱり、「良い人」だから神様が天国に呼ぶという考えが膨らんでいった。

同時に、「死」という天国への切符を与えられる人間は、素晴らしい人が故だと...... 死者と死を必要以上に心の中で美化して考えるようになった。

こう考えることにより、自分で自分を納得させていた所は少なからずあるだろう。どこかで、「死」を正当化せざるを得ないのだろう。

だって、何か理由がないと、同じくらいの年齢で同じ病気の人が一部は生き、一部は亡くなる現象が説明できない。

目の前の事態を受け入れるためには、納得する必要があるのだ。

ここで、自分の心の一部は時間が停止した。

後に学校の心理学の授業で、近しい誰かが亡くなった時の人間の心理の順を追った変化が、自然で皆が通る道であることを学んだ。そして、それを辿ることで残された者の心の傷を癒やしていくことも、それを手助けするには、「死」が引き金になって感じているその感情を受け入れることが必要だということも。

これがきっかけで、私はその姉のような存在を私自身で、実際よりも素晴らしい存在に感じた状態で心が止まっていることに気がついた。

そこから、心の整理が始まった。否、整理という表現は正確ではない。整理なんて、そんな殺伐とした言葉で友人との時間の終わりを表現したくない。

高校時代に止まったその心の時計が再び動き始めた。

その後も、親しくなった友人が病気で亡くなったり、自分も再び死にそうになったり...

私が入院している間に友人が自死したと知ったり...

「普通」とは少し違う人生を歩んだのだろうか。より強く「生」を意識するその人生は、常に「死」も寄り添ったものだった。

人は周りに与えた影響を通して、後世にその存在が影響し続けることで「生き続ける」と考えた時期もあった。

今でも、存在した足跡が誰かにとってプラスの何かになって欲しいと願う気持ちは変わらない。

そうして10年、いやもっとかな。じっくりと培われた死生観によって、「死」を受け入れる考え方へと変わっていった。

そう。自問自答を繰り返して、哀しみや苦しみを直視し、受け入れ、「死」そのものは善でも悪でもない出来事として捉える考えに帰着した。いずれ私にも、愛する家族にも、全ての友人にも、私と交わりがない誰かにも、皆に必ず訪れる「事象」として捉え、受け入れるようになって来ている。

しかし、受け入れるのと、それを願うのは違う。

もちろん、存在を受け入れることは、「生」にしがみつくことをやめるのとも違う。

そして、友人や家族が亡くなった時に、哀しまないのとも違う。

しかし、家族や友人が亡くなった時、彼らは天国へと旅立つ。いずれまた会えるように、私も今を生きる。そして、彼らの「生」が後世に影響を与え続けられるように、何かに貢献したいと願う。

そして、考えを巡らせ、想いが生まれては変化する。私が生き続ける限り、彼らが私に与えた影響も伝播していくであろう。私も周囲に何かしらの影響を与え続けられることを願う。私だけではない。彼らが交わった全ての人が、亡くなった彼らから受けた影響と彼らの解釈が加わったその考えや行動で周りを動かす。そして、いずれ私が死んだ後も、後世の者達がまた周りに影響を与え続けてくれるだろう。そうなることを切に願う。こうして、人々の想いは受け継がれ続けるのではないだろうか。

「生」、それ自体が生き物のように、それを授かった者を通して世界に染み渡る。

「死」その全ての生あるものに訪れる事象は、それ自体は自然の摂理だ。しかし、「生」が与えた影響力も、「死」が与えた影響も、ずっと続く。

この影響を通して、「生き続ける」と考えたこともあった。今は、それを私は生とは定義しない。

「死を受け入れる」とは言いながら、実際はどうなのだろうか。その存在を知るが故に、「生」をより意識し、限られた時間で何かしたいと思うのかもしれない。

実際には、どこかでまだ受け入れきれないのかもしれない。

やはり、死生観というのは人類の永久のテーマだと思う。そして、その考えを持った者が生き続け、いつか死ぬ。周りの人類は、時を経てそれに関して議論し続けるだろう。

「その時」が近づいた時、あなたもあなたの家族も「生」、「尊厳」、「死」を直視し、最善の選択をできるように、今から考えてみて欲しい。

そして、身近な誰かに話しづらかったら、日記に綴ったり、SNSに自分の考えを登記して欲しい。あなたやあなたの家族が、最も自分に合った時を刻み、安らかに旅立てるように。

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