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なぜ "リビア" なのか。 前編

2006年末から2011年のはじめまで
わたしはリビアに住んでいた。

リビアといえば、
当時はカダフィ独裁政権下で
言論の自由はなかったけれど、
オイルマネーのおかげでみんなが
それなりにいい暮らしをしていて、
アフリカでも中東でも
最も安全な国の一つだった。


しかし、それは2011年2月までの話。

この時、チュニジアに端をなす
いわゆる「アラブの春」という、
「公正な社会」を求めて人びとが
アラブ各国で立ち上がった運動が
リビアにも波及した。

「二週間して、反体制派の運動が
落ち着いたらまた戻ろう。」
そうやって両親と話しながら
日本に退避して、今年で7年。

反体制派の抗議運動に対して
政権は国民に銃を向けはじめ、
そこからは3月にNATOが介入して、
反体制派が圧倒するようになって
最後にはカダフィが殺されて。

日本に帰ってから8月までは
あっという間だった。
あっという間だったけれど、
その間に多くの命が犠牲となって、
多くの大切な場所が破壊され、
多くの武器がリビアに流入した。


人びとが反政府運動をしたのも、
公正な社会を求めたのも、
わたしは一部しか知らないとはいえ、
感覚的には当たり前のことだった。

リビアに住んでいたころは
政治のことを話すのはタブーだったし、
町中にカダフィを讃える看板があった。

わたしの通っていた
インターナショナルスクールでさえ、
政権の素晴らしさを学ぶ授業があった。

日本という民主主義の国で生まれ育った
わたしからしたら、
リビアでも人びとの声がきちんと
聞かれて然るべきだと思った。

生まれる場所は選べないのに、
わたしは当たり前に政治や社会、
生活に関する自分の意見を言えて、
それらはきちんと政治の場に反映される。

他方、リビアに生まれたというだけで、
限られた自由しか持つことができず
そのために血を流して戦わないといけない。

わたしとリビアの人は同じ人間。
そう思えたのがリビアでも生活だったけど
それでもわたしとリビアの人は、
根本的に違う生活をしてきた。

この事実が、当時も今も
わたしの心を痛め続けている。


そして、その二つの場所をわたしは
自由に行き来できたということも。


ところで、リビアは
よくシリアとの比較のなかで、
国連の安保理決議に基づいた人道的介入を
行った例として取り上げられることがある。

確かに今のシリアを見たら、
パワーのある国々が黙って見ていないで
何かアクションを起こしたことは
意味のあったことかもしれない。

しかし、わたしが日本に帰ってきて
最も悲しかったことは、
リビアをはじめとした国々での殺し合いが
まるで存在すらしないかのように
日常が流れていることだった。

確かに日本が政府として
あるいは国民として何かすぐに
できるとか、責任があるとか
そういうことを思ったわけではない。

けれども、ここまで人びとの苦境が
気に留めもされないという状況が
わたしは許せなかった。



さらに、政権が崩壊してから
戦闘で疲弊したリビアの再建に
介入をした国々が十分コミットしたかは
大きな疑問が残る。

2012年以降、カダフィ政権崩壊に
リビアが民主的な国になるかもしれない
という期待は少なからずあった。
最初の選挙も行われた。

しかしながら、一度経済が疲弊し、
武器が出回り、勢力が分裂した国で
次に誰が権力を持つのかという争いが
起こるのは、時間の問題だった。


なぜ"リビア"なのか。 後編 に続く


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