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自分の話ばかり

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自分の話ばかりするひとは嫌われます。
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#文章

イラストレーターになっていた

イラストレーターになっていた

僕はイラストレーターになっていた。

開業届を出して、確定申告もしている。それほどたくさんの仕事ができているわけではないが、日本だけではなく、海外からも問い合わせのメールがやって来るようになって、フランスではまんが家デビューもしたし、中国ではアーティスト・エージェンシーに所属することにもなった(*1)。自主企画ではあるけれど、個展も何度か開催できた。さすがにもう、誰が見ても「イラストレーター」と呼

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before LIFE

before LIFE

翌週に個展を控えた月曜、母方の祖母が亡くなりました。未明に亡くなったのを、朝の電話で知りました。3月ごろから元気がないことは聞いていましたが、なぜこのタイミング。でも、亡くなるのであればこの時期、という気もどこかでしていました。89歳。直近で大きな病気をしていたわけでもないので、自然ななりゆきではあります。

展示のまえの1〜2週間なんて、やることだらけで、とにかく作業に集中したい。失敗するかもし

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不安についてのノート

いま自分が過度に神経質になったり、不安の種を探すような真似をすすんでしてしまっているのは、もしかしたら「イラストレーターになれるのか?」という大きな不安がひとつ埋まってしまい、その分の不安をどこかにつくりだして、バランスをとろうとしているからなんじゃないか。そんなふうに考えてしまっていること自体が、なんだかとてもいびつなんだけど。

「これじゃなくてもいいや」という感覚をどこかで持ちながら長くしぶ

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スタイルについて

スタイルについて

イラストを描くモードに入ると、文章を書いたり読んだりすることがまた遠くなっていく。ひとたび離れてしまうと、戻るのには「えいやっ!」と勢いをつけて跳躍する力が必要になる。一日のうちにほんの少しでもメモ書きをしたり、本を読み進めたりする時間を持てればいいのだけれど、それを習慣にするのにもそれなりの精神力がいるわけで、なかなか簡単なことではない。

イラストを描くときと文章を書くときとでは、思考のあり方

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俺はパソコンじゃない

俺はパソコンじゃない

書くようになってから、読むようにもなった。読むようになると、次に読みたい本がおのずと出てくる。読んでいる本の中に、すでに持っている本が(引用かなにかで)登場するとうれしい。この本、持ってるよ。買って書棚に収めたままになっていることに、読み進めている途中で気がつく。

読んだっけ、読んではいないはず、でも持ってる。書棚を探し、引っぱり出してくると、やっぱり読んでいない。ページをパラパラとめくってみて

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上等じゃないか

上等じゃないか

僕の書く文章の主たる読者は、僕自身だ。たくさんのひとに読んでもらえるのなら、それは素直にうれしいだろう。新しい読者を迎え入れたいと思うからこそ、SNSでは告知もする。一方で、現実にはほんの数人の読者しかいないのだとしても、それは大した問題ではない。いや、もちろん、少しはさみしい。気軽に読んでもらえる場所に書いているのだから、読んでほしい。そう思うのと矛盾せず、誰にも読まれなくてもかまわない。こうし

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「描くこと」と「書くこと」

「描くこと」と「書くこと」

イラストレーターとして本格的に仕事をはじめてから、僕は本を読まなくなった。それまではバックパックに常時2〜3冊は入れて、移動中には必ず本を広げていたが、いまはほとんど家にいる。作業をするときにはラジオを流すので、誰かの声がいつも耳に届いている状態だ。それだけでもうトゥーマッチ。言葉の源泉かけ流し。自分という器に言葉が注ぎ込まれつづけ、端から溢れ出ていくのを感じていた。

机に向かい紙の上に線を引く

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才能とは「現象」である

才能とは「現象」である

「才能」と呼ばれるなにか。それは個人に帰属するのものなのだろうか。生まれ持った資質、家庭環境、育った地域、周囲のひとたちとの関係、時代の流れ、タイミング……さまざまな偶然の要素が折り重なって生じる、ひとつの「現象」なのではないか。

ひとが「才能」という言葉を口にするとき、多くの場合それは、個人の「生まれ持った資質」のことを指しているように思う(辞書的にもそうだ)。ある技術や思考、ふるまいを習得す

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彼がいた

彼がいた

これまで断片的に思い起こしてきた数々のエピソードに、筋道を与える。過去を振り返りながら自分のことを言葉にしていくとき、その過程でこぼれ落ちていった細部を僕は、「忘れてもいいこと」として扱っているのではないかと、ときどき少し気がかりになる。なんでも書けばいいわけではない。文字数や伝わりやすさを優先して、書かない判断を重ねていくのは、目の前の文章にとって必要なことだ。そうして書き上げられていく文章は、

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好きにさせてくれ

好きにさせてくれ

映画館に通うようになったのは、高校生になってからだ。劇場に通う習慣のある家庭ではなかった。小学生のころまでは、父に『ゴジラ』や『ドラえもん』を見に連れていってもらったけれど、家族が自分の意思で自分の見たい映画を見に行っているところを、僕は一度も見たことがない。好きな作家が映画について書いているのを読み、好きな芸人が映画についてラジオで話しているのを聴き、大人になって彼らに出会ったときのことを思った

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ラジオが聴きたかった

ラジオが聴きたかった

はじめてラジオの深夜放送を聴いたのは、家族で山へ彗星を見に出かけた夜だったはずだ。子供のころ、天体観測が趣味の父に連れられ、星を見に行くことがたびたびあった。カーラジオから流れるおしゃべりの内容は、まったく憶えていない。それから何年か経った中学1年生の初夏(期末試験の勉強をしていた夜だったと思う)、僕は自分の勉強部屋で深夜ラジオに出会い直し、すっかり大人になった現在に至るまで、およそ20年間、ほと

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直球ですみません

直球ですみません

読書感想文で賞をもらう、なんて、教師に気に入られるのが得意なつまらない優等生のやることで、そこで身についた文章術は、のちに論文や批評を書くのにはむしろ邪魔だ。そんなことを言うひともいるのだろう。ところで僕は、高校生のとき、読書感想文で賞をもらった。もらったのは全国の賞じゃない、校内のささやかな賞(学年でふたり選ばれる)。「出しても出さなくてもいい課題」として出されたその課題に、夏休み、僕は勝手に「

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おもしろくない

おもしろくない

おもしろすぎると、おもしろくない。

おもしろくしようという意図が、ある水準を超えて感じられると、途端に気持ちがしぼんでいく。押しつけがましい、図々しい、と言ってしまえるほどの嫌悪感があるわけでもない。ノウハウの蓄積や創意工夫が見てとれて、明らかにプロのクオリティの仕事をしているのがわかる。一定以上のおもしろさは確実にある。でも、それは「一定以上のおもしろさ」と矛盾せず、もう取り返しのつかないくら

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みんな無駄だった

みんな無駄だった

「イラストレーターになっていた」では、この10年あまりのいきさつを駆け足で振り返った。書きながら思い出すさまざまなエピソードを、どこまで実際に書くか。あったことを都合よく省略(編集)してストーリー化することには、多かれ少なかれ欺瞞を感じてしかたがないが、枝葉をバッサリいかなければ、テキストは延々とつづいてしまう。そんなに長くはしたくない。関係者が読んだら、「こいつ、自分のいいように書きやがって」と

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