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彼がいた

これまで断片的に思い起こしてきた数々のエピソードに、筋道を与える。過去を振り返りながら自分のことを言葉にしていくとき、その過程でこぼれ落ちていった細部を僕は、「忘れてもいいこと」として扱っているのではないかと、ときどき少し気がかりになる。なんでも書けばいいわけではない。文字数や伝わりやすさを優先して、書かない判断を重ねていくのは、目の前の文章にとって必要なことだ。そうして書き上げられていく文章は、ほんのりとうしろめたさを帯びる。書かれなかった宇宙を引き連れて、書かれたものが、僕は好きだ。

会えなくなった友達が、いまなにをしているのか考える。就職しなかったり、仕事も仕事になっていなかったり、ひとに説明するのが面倒な時期があって、僕は同窓会に行かなくなった。情けない話だが、ありふれた話だ。最後に顔を出した高校の同窓会に、彼は来ていなかった。それから電話やメールやSNSで連絡を試みたこともあったけれど、駄目だった。いまでも交流のあるかつての同級生たちに訊くと、彼らも連絡がつかないらしい。生きているのか死んでいるのかもわからないが、死んでいたらそんな話、さすがに耳に届きそうだ。

高校時代に彼はアンゲロプロスの映画を見ていて、僕は驚いた。なんだよそれ、ひとの名前? ギリシャの映画監督? そんなの見るひとが身近にいたんだ(そのあと何年か映画を見つづけていくと、アンゲロプロスは遅かれ早かれおのずと辿り着くビッグネームだとわかった)。尊敬と羨望と「負けたくないな」の気持ちが入り混じりつつ、ともに過ごす時間も多くなった。学校帰りの中古CD屋で、ローリング・ストーンズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドを教えてくれたのも彼だ。ロックレジェンドたちの音楽だって、当時は全然知らなかった。いまの自分の趣味の根幹に、あのころの「わかりたい」がある。とはいえこれも、高校生ならありふれた話。自分にとっては大切であっても、わざわざ他人に読ませるほどの話ではない。しかし、そこには彼がいた。

同窓会に来なくなった同級生とこそ、同窓会がしたい。本筋からこぼれたエピソードを、僕はいつまで憶えていられるだろうか。忘れなければ、いつか書ける。会えるようになったら、また会いたい。僕が忘れた話を、きみはするだろう。きみが忘れた話を、僕は憶えていられるだろうか。

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