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上等じゃないか

僕の書く文章の主たる読者は、僕自身だ。たくさんのひとに読んでもらえるのなら、それは素直にうれしいだろう。新しい読者を迎え入れたいと思うからこそ、SNSでは告知もする。一方で、現実にはほんの数人の読者しかいないのだとしても、それは大した問題ではない。いや、もちろん、少しはさみしい。気軽に読んでもらえる場所に書いているのだから、読んでほしい。そう思うのと矛盾せず、誰にも読まれなくてもかまわない。こうした気持ちがまだらになって共存していることの不思議を自覚したとき、僕はこの文章の出発点に立っていた。

書きはじめたときには思いもしなかったところに着地するのが愉しい。最後まで書くことを決めて書く文章なら、そんなもの書きたくはない。書きながら考え、迷い、なにかを思い出しては忘れ、進んでは戻りつつ、最後の一文まで筋道をつけていく。この一連の営みそれ自体を経験したいからこそ、僕は文章を書くのだろう。

どんなに注意深く精確さを求めた文章であっても、書き終えた途端にそれは自律した他者となり、「こいつ、なに言ってんだろう」と思う。埋められない自分自身との差異が、また次の文章を書きはじめるきっかけとなる。書くことを通して自分自身も揺れ動き、変化していくから、その差異は決してゼロにはならない。書くたびに、書く理由が増える。理由があるからといって、実際に書くかどうかは別ではあるけれど。

語られた言葉が浮かび上がらせる沈黙がある。いまの自分には語りえないこと、語りたくないこと、語ってもいいけど語らないでいること。書くことによって、沈黙におぼろげな輪郭が与えられる。もっとも重大なことは、たいてい沈黙の中に留め置かれているものだ。自分がどこで語りのブレーキをかけているのか、書いているあいだには無自覚だった部分に、読者として気づくこともある。どこまでを語り、どこまでを語らないか。沈黙の輪郭は、そのひと自身の姿に似ている。

面倒くさいやつだ。面倒くさいやつとは仕事をしたくない。そう思われるんじゃないかと勝手に気をまわして、これまで書くことを封じてきた面もある。自己宣伝のために取り繕った文章を、僕は積極的に書く気にはなれなかった(必要ならばたまには書くけれど)。書くことでむしろ、対人的には「損」をしているんじゃないかと、恐ろしくなることもしょっちゅうだ。こんなことだって、別に書かなくたっていい。書かなければ、誰にも知られない不安だろう。

しかし、それでも書くことのほうをいまは選んでいる。なぜか。この謎が次の出発点になるのかもしれないが、書くかどうかはわからない。ただ、そうやって、新たに書きはじめる可能性をいくつも抱えている状態は悪くない。というか、かなりいい感じ。書いていない時間の日常に、新たな視点が加わって、さらに僕は「面倒くさいやつ」になる。上等じゃないか、それがどうした、まあいいかな。

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