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好きにさせてくれ

映画館に通うようになったのは、高校生になってからだ。劇場に通う習慣のある家庭ではなかった。小学生のころまでは、父に『ゴジラ』や『ドラえもん』を見に連れていってもらったけれど、家族が自分の意思で自分の見たい映画を見に行っているところを、僕は一度も見たことがない。好きな作家が映画について書いているのを読み、好きな芸人が映画についてラジオで話しているのを聴き、大人になって彼らに出会ったときのことを思った。いつか一緒に話がしたい。でも、このままじゃまずいよな。そう考えて、あるとき僕は、「映画を見るひとになろう」と決めた。

2003年から見た映画はすべて、おなじテキストファイルにメモしてある。タイトルだけ。感想まで書くほどの根気はない。僕はいわゆる「シネフィル」ではない。年に365本、あるいはそれ以上、映画を見るひとが世の中にはいるという。僕はそうはなれない。100本以上の映画を見た年も何年かあったけれど、正直に言って、かなり無理をしていた。研究者や評論家になるわけでもないのに、無理をしてまで見るものなのか、映画って。そう思うようになって、ここ数年は「見たくなったときに見たいだけ」の方針に切り替えた。見るのはほとんどの場合、劇場だ。家での集中力は壊滅的で、とても信用しきれない。見た数なんて、そんなもの……。

年間鑑賞本数。みっともない話だが、ずっとこれが気になってきた。誇ったようにプロフィールに書くひともいれば、「100本以上見ないと話にならないよ」なんて、ほんとうに言うひともいる。年間ベストを挙げるなら、見た数も一緒に書いてくださいね、じゃないと参考にならないから……って、うるせえ! 好きにさせてくれ! 映画を見る以外にもやることはあるし、やることはなくても映画は見たくない日だってあるんだからさ。放っておいておくれよ。いや、そんなこと、誰も直接言ってきたりはしない。SNSのどこかで見かけたり、見かけたものを勝手に自分で反芻したりして、苦しんでいる。そんな必要はまったくないってわかっているのに。

テレビデオの小さな画面で見た、粒子の粗い、ノイズ混じりのタルコフスキーやアンゲロプロス。無理をしなければ手を出せなかったし、見通すこともできなかった映画がたくさんある。とんでもなく眠かった。内容だってほとんど記憶にない。けれど、いくつかのイメージはいまでもすぐに思い起こせる。映画でもほかのメディアでも、なにかにふれたときに想起され、連想されるイメージのストックをつくるのに、無理をしてでも見る期間は(あくまで結果的に、ではあるが)役に立った。それはすなわち、自分の創作にとってのイメージソースでもあり、これではない別の世界や生き方に紐づくインデックスともいえる。

映画の話をする機会はほとんどない。かつて憧れた彼らとはもちろん、友人とさえ。むしろ見れば見るほど、独自の回路が複雑につくりあげられ、他者と共有することから離れていっている気がする。そんなつもりじゃなかったのに。誰かと共有したくて、「映画を見るひと」になろうとしたはずなのに。映画と自分との関係ばかりに耽溺するのはまずいとわかりながら、映画を見るたびそこへ戻っていく。うるせえ、好きにさせてくれ。映画を見る時間とは、映画を見ない時間への祈りなのだ。しかし、祈ってばかりでは現実は動かない。そう考えて机に向かう時間もまた、あなたに会うその日への祈りだった。

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