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才能とは「現象」である

「才能」と呼ばれるなにか。それは個人に帰属するのものなのだろうか。生まれ持った資質、家庭環境、育った地域、周囲のひとたちとの関係、時代の流れ、タイミング……さまざまな偶然の要素が折り重なって生じる、ひとつの「現象」なのではないか。

ひとが「才能」という言葉を口にするとき、多くの場合それは、個人の「生まれ持った資質」のことを指しているように思う(辞書的にもそうだ)。ある技術や思考、ふるまいを習得するのに、ひとによって向き不向きはあるだろう。向いていない分野で社会的に成功することは難しいかもしれないが、向いていないと思っていたことが、長い時間をかけて特別な能力へとつながっていく可能性だってないわけではない。その能力が社会的に無価値だと(ときには、有害で排除すべきものだと)同時代の多くのひとに判断されたとしても、おなじ能力が未来にどう判断されるかはわからない。同時代でも、別の地域、別の社会では、熱烈に受け入れられることもあるかもしれない。

才能が才能として現れ出るには、個人の資質を超えて、さまざまな条件が関わってくる。ある時代、ある場所で、ある人物を通じ、なぜか発揮されることになった能力。それ自体に意味があるわけではない。社会との関係の中で、なにか意味がある、価値がある、と多くのひとに感受された能力が「才能」と呼ばれる。個人の資質は、そこに含まれる数多の要素の一部にすぎない。才能をただ誰かの所有物のように考えるのでは、その謎めいた総体を捉えられなくなってしまうだろう。

現在・過去・未来を生きる多くのひとたちの、流動的でなんだかよくわからない、意識と無意識のあわいに現れた、ひとつの結び目としての「現象」。僕は「才能」と呼ばれるものを、より広義に、そういうものとして捉えたい。こう考えると、自分にそれがあるとかないとかで思い悩んでもしかたがなくなり、「やれるだけのことをやるだけだ」という気持ちで目の前のことに取り組める。落ち着いていられる。

なんて言いつつも、実際には、そんなに単純にはいかない。真に受けなくたっていい誰かの言葉に身をすくませ、いちいち惑いながら進むのがいつものことだ。だから、こうして暫定的な考えを書き留めることで、ここにひとつ立ち戻れる地点をつくっておこうと思う。

才能とは「現象」である。

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