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おもしろくない

おもしろすぎると、おもしろくない。

おもしろくしようという意図が、ある水準を超えて感じられると、途端に気持ちがしぼんでいく。押しつけがましい、図々しい、と言ってしまえるほどの嫌悪感があるわけでもない。ノウハウの蓄積や創意工夫が見てとれて、明らかにプロのクオリティの仕事をしているのがわかる。一定以上のおもしろさは確実にある。でも、それは「一定以上のおもしろさ」と矛盾せず、もう取り返しのつかないくらいに、全然おもしろくない。

この感覚、誰かにわかってもらえるのだろうか。テレビでもラジオでもウェブでも本でも、この感覚に陥って、見て/聴いて/読んでいられない「おもしろいもの」がたくさんある。いつからこうなったのかはわからないけれど、子供のころは、「おもしろいもの」はそれだけでだいたいおもしろかったはずだ。しかし、いまでは違う。こちらから迎えに行かせてくれない「おもしろいもの」は、おもしろくない。「迎えに行かせてくれ方」の設計が緻密であればあるほど感心するが、これも感心しすぎるくらいの主張が感じられると、やっぱりおもしろくない。

あるときから、写真がおもしろくなった。撮るほうではなく、見るのが。それも、かつてであれば「サービス精神のかけらもないな…」なんて思っていたような、直接「仕掛け」の見えない写真を前にするのがいい。画面の中に撮影者のアイデアが見えなくたってかまわない。その前に立ち、写真と自分とのあいだに「関係」が生まれることに、愉楽がある。写真の前に立つこと自体がひとつのセッションで、創造的な行為。そう感じられるほどになったのは、いったいどんな変化が自分に起こったからなのだろうか。その不思議も含めて、いまは写真を愉しんでいる。

作品の側にコントロールされすぎるのも、自分の見方を寸法きっちりに当てはめるのも、どちらもおもしろくない。「興醒め」のセンサーを潜り抜けながら、両者のあいだのグラデーションをたゆたって、たまに出会える特別な関係がうれしい。

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