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「描くこと」と「書くこと」

イラストレーターとして本格的に仕事をはじめてから、僕は本を読まなくなった。それまではバックパックに常時2〜3冊は入れて、移動中には必ず本を広げていたが、いまはほとんど家にいる。作業をするときにはラジオを流すので、誰かの声がいつも耳に届いている状態だ。それだけでもうトゥーマッチ。言葉の源泉かけ流し。自分という器に言葉が注ぎ込まれつづけ、端から溢れ出ていくのを感じていた。

机に向かい紙の上に線を引くのには、そういう自分であったほうが都合がよかったのかもしれない。頭の中を言葉がフローしていくと、手は意味を追わなくなる。心地のいい線、ありうべきかたちを求めるとき、言葉で論理を築き上げていく隙を与えられないことが、僕には好ましかった。イラストも意味の視覚的な操作には違いないが、言葉を扱うときとは、似ているようでまったく別の感覚がある(意味を追わないまま、気づけばそれは立ち上がっている)。つい言語の操作に偏重してしまう自分が煩わしく思えた。

僕のイラストは記号の集積だ。眼前の光景の微細な変化を描き留める、なんていうタイプの絵は描いていない。先人たちが開発した記号をアレンジしながら、グラフィカルに組み合わせ、ひとつのイメージへと収斂させていく。ほんの一瞬のまなざしで、なにが描かれているのかを誰もが把握でき、なおかつ適度にフレッシュな印象を与える(あまりに斬新で見たこともないものでは、商品として機能しない)。それが僕にとって、イラストを描くうえでの基本だった。

大学時代には、まわりにも小説などの創作をしているひとたちが多くいたにもかかわらず、僕は文章を書くことに真正面から取り組むことができなかった。自分なんか大したことがない、とわかってしまうのが怖かったのかもしれないが、それ以上に「誰にも読んでもらえない孤独」と向き合うことに怯んでいたのだと思う。

文章は、パッと見ではなにも判断できない。読むのに時間がかかるし、読んだところでその質を見極めるのは難しい。有名な賞を受賞した作品でさえ、手に取るのにはそれなりに高いハードルがあるのに、誰がアマチュアの書く長文を最後まで読み通してくれるのか。書かないことをそんなふうに言い訳して、僕はパッと見でも伝わることをやろうと思った。

「パッと見でも伝わること」といっても、もちろん簡単なことではない。瞬時の判断に晒されつづける過酷もある。いま再び本を読み、こうして書くことにも意欲を取り戻しているのは、その過酷に少し疲れたことも関係しているのかもしれない。なんて書くと、疲れるほど描いていないじゃないか、と一方では思ってしまう自分もいる。

いいから描け。この内なる声に叱咤(あるいは強迫)されながらこの数年つづけてきたけれど、その声の届く範囲を超えたところにいまはいて、かけ流しでない言葉との向き合い方を、もう一度探しはじめている。「描くこと」と「書くこと」の新しい関係を求めて。バラバラだったイラストと言葉が、有機的に結びつく地平にいつか辿り着きたい。

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