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スタイルについて

イラストを描くモードに入ると、文章を書いたり読んだりすることがまた遠くなっていく。ひとたび離れてしまうと、戻るのには「えいやっ!」と勢いをつけて跳躍する力が必要になる。一日のうちにほんの少しでもメモ書きをしたり、本を読み進めたりする時間を持てればいいのだけれど、それを習慣にするのにもそれなりの精神力がいるわけで、なかなか簡単なことではない。

イラストを描くときと文章を書くときとでは、思考のあり方がまるで異なる(ように感じる)。それでも僕は文章を書くとき、ある部分では、イラストを描くときとおなじような感覚を持っている。段落ごとの文の分量、漢字とひらがなの割合(どの言葉をひらがなに開くか)、読点の位置やリズム……視覚的な構成と、音読したときの呼吸には、内容以上(と言ってもいいくらい)に執着があり、微調整を繰り返している。

自分のやり方がうまくいっているかはわからないし、文章に関わる仕事をするプロフェッショナルにとっては、ごくあたりまえのことだろう。僕はもの書きとしての仕事はしていないけれど、自分の名前を出して書く以上、イラストと同等のクオリティを文章でも保ちたい。1ピクセル単位の修整を重ね、線や色やかたち、その細部と全体の呼応を吟味するのとおなじ視線と手つきで、文章を書けたらと思っている。

スーザン・ソンタグのエッセイ「様式(スタイル)について」(1965)には、強い影響を受けた。大学時代に読み、当時は目の醒めるような感覚があったはずだが、時間が経って思い返すことも少なくなった。しかし、僕の芸術観の核には、いつでも彼女の言葉がある。

様式は芸術作品を決定する原理、芸術家の意志の署名である。(* p.62)

僕がデザインの学校に進んだのは、ソンタグの言う「スタイル」を探究する方法を、専門的かつ具体的に手に入れ、創作のベースにしたいと考えたからではなかったか。なんてことも振り返りながら、ずいぶんと久しぶりに『反解釈』の文庫本のページをめくってみると、そこには(自分にはめずらしく)たくさんの傍線が引っ張ってあった。

コクトーは書いている。「装飾的様式などというものは存在したことがない。様式は魂である。そしてあいにくわれわれの場合、魂は肉体のかたちをとっているのだ。」……ほとんどどんな場合でもわれわれの外観はわれわれの存在の仕方であると言っていい。(* p.39)

「ビジュアルがよくても内容がともなわないものはいくらでもあるが、ビジュアルが悪くて内容がいいものはひとつもない」とまで当時は考えていた。いまはそこまで極端には考えていないが、引用されたコクトーの「様式は魂」という言葉は、自分の意識の奥底に染みついている。たとえ意見やエピソードが興味深くても、体裁(ひいては文体)に無頓着で、言葉を雑に扱っている文章にはがっかりしてしまうし、そのひとなりの規範意識(それを逸脱・破壊することも含めて)が感じられない作品には、魅力も感じない。

芸術作品として出会った芸術作品はひとつの経験であり、発言とか、質問に対する回答などではない。芸術は何かについて述べるものではない。それ自体何かなのである。(* p.45)

芸術を通してわれわれが手に入れる知識は、(事実とか倫理的判断のような)何かについての知識よりも、何かを知ることの形式あるいは様式についてのひとつの経験なのだ。(* p.45)

「テーマ」や「教訓」じゃない。作品の持つスタイルがどのように作用し、関係を立ち上げ、独自の経験をもたらすのか。見る者としてこれを意識しすぎず、自然体で向き合いながら愉しめるようになってきたのは、ここ最近のことだ。

あらゆる芸術作品は、それが表現している生きた現実からある距離をおいたうえに築かれている。……作品の様式をつくりあげるのは、この距離の程度とそのとりあつかい、つまり距離についての約束事である。結局〈様式〉が芸術なのである。(* pp.58-59)

感情移入をベースとした創作や鑑賞を否定するつもりはないけれど、ソンタグの言う「距離の程度ととりあつかい」を僕はいつも気にかけ、自分や他人の作品に(よくも悪くも)シビアなまなざしを向けている。ここでの「距離」を、共感や感傷に対する「節度」や「倫理観」と呼び替えてもいいかもしれない。これは、以前に「おもしろくない」で書いたこと(「おもしろすぎると、おもしろくない」)とも、密接に関わっているだろう。

もしある作品がどんな繰り返し方をしているか理解しなければ、その作品を文字通り感じとることができないし、したがってまた理解することもできなくなる。繰り返しを感じとることによって芸術作品は理解される。(* p.66)

自身に向ける批評的なまなざしを抑制しないと、創作は進まない。ある程度まとまったかたちになり、目の前の作品(になりかけているなにか)に「繰り返し」を見出したとき、自分がなそうとしてきたことの端緒をつかみとることができる(こともある)。それを作品にフィードバックさせることによって、スタイルはさらに練り上げられていく。

すっかり忘れてしまっていた言葉が、いまも自分の中で息づいていることに、こうして書きながら気づく。もしかするとスタイルに対しての意識のあり方は、バラバラだったイラストと言葉を有機的につなぐ、ひとつのヒントになるかもしれない。まだまだ手探りで進む。

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* スーザン・ソンタグ『反解釈』、高橋康也・出淵博・由良君美・海老根宏・河村錠一郎・喜志哲雄訳、ちくま学芸文庫、1996年

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