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今日死ぬと思って生きろ! ホームレスだけど結婚した話

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門


誕生から高校中退まで。

 1998年3月8日。俺は産声を轟かせずに産まれた。首に臍の緒が巻き付いて仮死状態。今思い返せば、この時に死んでおけば良かった。別に望んで生まれた子でもなかったらしい。母方のお爺ちゃんお婆ちゃんが「孫の顔が見たい」という理由だけで不妊治療の何百万を出し、なんやかんやあって俺はこのクソみたいな世界に生を受けた。
 父方のジジババには好かれなかったらしい。理由は知らない。母親はこの年寄りによく虐められ、父親は助ける様子もなかったと聞く。夫婦仲も良くなかったからか、母親は父親に黙って遊びに行っていた。俺を押し付けて。実質、ネグレクトだ。俺は父親にも可愛がられた記憶は無いし、あまつさえ顔も名前も知らない。
 俺が保育園の年長になったかなってないかくらいで、父親は自殺した。離婚を突きつけられたかららしいが、死人に口なし。そもそもなんで離婚なのかも知らないし訊くつもりもない。
 母子家庭になってからは、親戚の家をたらい回しになった。保育園の終園時間になっても迎えに来ないなんてザラにあった。仕事が休みでも家に居ないなんて当たり前。
 どっかの親戚が言っていた。
 「こんな小さい子を1人でほったらかすなんて。お前は大きくなってもグレんなよ」
 母親は風俗をやりながら俺を育てていた。待機部屋でデリヘル嬢と一緒に夜王を見たり、お菓子やインスタント麺を食べていた。
 年長になると、ゴミ屋敷の家に放置される事もあった。我が子を置いて、変わるがわる男に会いに行く。もちろん晩飯は無し。夜中に帰ってきて早速寝ようとする母親に、「お腹空いた」と泣き喚く俺。無視されたのがつらくてつらくて、その記憶が脳裏にこびり付いている。
 今じゃ「卑しい」と言われるほど食べたがるのは、こういう幼き体験によるものだろう。
 家を出たいと思い出したのはこの頃。片道2キロあるお爺ちゃんお婆ちゃんの家まで歩いて向かった。その道中で見知らぬ人が俺を車に乗せ、目的地まで送ってくれた。今思うと怖い事をしている。
 また、洗濯物や使用済みの食器、ゴミなどが家に散乱するようになった。呆れた俺が家中を掃除したら、喚き散らしてゴミ捨て場からゴミを持ち帰ってきた。本当に頭のイカれた奴だと思う。この行動は何回かやってるが、同じ事の繰り返し。もう諦めた。ゴミ屋敷の完成だ。自分のゴミだけは捨てに行くようにしていたが、手に負えない。
 小学生に上がると、本格的に家を出たいと思うようになる。その為に金が必要なのは馬鹿でもわかる。"中学生からアルバイトが出来る"という情報を知り得た俺は、絶対に働くと決心した。
 小学校で虐められていた。洗濯されないから何日も同じ服を着たりするし、クラスで一番太っていた。かつ一番頭も悪い。そして一番、空気が読めない。輪に入れない者、馴染めない者は、排除される。標的になる。皆の、ストレスの捌け口。
 虐められている事を両親に言えない子が多いらしいが、俺は自分から言った。でも別に、何かしてもらえるわけではなかった。「ふーん」としか言わず、ずっとパソコンかケータイで男とやり取りしている奴だった。
 俺は隙を見計らってパソコンを触っていた。虐めについてググった。その流れでなぜか少年法を聞き齧った俺は、やられたらやり返す事を決意。仮面ライダーが好きだったので、悪を成敗する姿に憧れていたんだ。
 謝る事になったのは、俺の方だった。教師は俺が虐めっ子に謝罪しろという。その子の親が家まで乗り込んで来たり、別の場面だと向こうの家まで謝りに行かされた事もあった。
 俺は、勧善懲悪を実行したまで。悪を持って悪を制した。先に手を出す方が悪いのだと思っていたが、うちの母親は俺を責めた。意味がわからなかった。俺は被害者だから守られて然るべきだろうに、なぜこっちが頭を下げているんだ?
 学校が嫌いになった。母親の事も。
 中学生になり、環境が変われば虐めも解消されるかと思ったが、人が変わるだけで現状は変わりはしなかった。不登校になる事を決意した。勉強なら家でも出来るし、わざわざ暴力を振るわれに向かうのは嫌だった。
 自転車通学だが、嫌すぎて道路でサボっていた。でも、狭い世界しか見えておらず世間知らずなので、学校に行かなければ自分に存在価値が無い、行く以外に選択肢が無いと思い込んでしまい、遅刻という手段で学校へ行った。遅れた事に怒った担任にチョークスリーパーをされた。
 本当に学校が嫌だ。いや、暴力が嫌なんだ。でも、家に居たところで母親に暴力を振るわれるだけ。どっちにしろ俺はツラい。こんな状況で死にたくならない奴なんているだろうか?
 登校拒否を意思表示する。母親はそんな俺を無理矢理車に押し込んででも連れて行こうとする。校門で降ろされるから裏口から抜け出した。鍵っ子だったのは都合が良い。さっさと帰って、家でのんびり出来たから。
 学校なんて建物を見るだけでも嫌悪感を覚えるようになった。フラッシュバックだ。だからどうしても行きたくなくなった俺は、母親に暴力を振るうようになった。向こうが力ずくで登校させようとするなら、俺も反抗するしかない。こうして登校拒否を強行。母親がこの事を同級生に愚痴ると、土産物屋の社長なのでウチで働けと行ってきた。
 「学校に行くか、アルバイトをするか、どっちか選べ。どちらもしないのは駄目だ」
 小学生の頃、中学に上がったらアルバイトをするって決心していた。その事を思い出し、働く事にした。初任給で、お婆ちゃん達と回転寿司を食べた。週一で働いて5000円丁度は安いけど。
 中2に上がった。担任が急に三者面談とか言って夜に呼び出してきた。不登校になると告げたら、スクールカウンセラーが呼ばれる事になった。
 「虐めを母親に言わなかったのは、親を心配させたくないからだね」
 適当な事を言う奴だった。俺は親を信用していない。言ったところで何も変わらない。だから自分の力で解決しようとした。そもそも行かなければ虐めに会わなくて済む。それだけの話。
 別室登校をしなさいと言われた。話が通じない。俺はそもそも、学校自体に恐怖を覚えているんだ。とか言いながら数ヶ月は行っていたけど気持ち悪いのは変わらないので、行かない事にした。
 スクールカウンセラーは言った。
 「甘えるのはやめなさい。ちょっとは耐えなさい」
 俺には理解不能だ。逃避は甘えてるのではなく、自己防衛。頑なに登校を拒否したら、ホースセラピーを勧められた。人間不信なのが伝わったかもしれない。
 乗馬は楽しかった。ただ毎日ひたすら馬に乗っていた。でも、勝ち負けとか興味無かったので試合には出なかったら、乗馬クラブの部長に怒られた。何が駄目なのか理解出来ない。純粋に乗馬をするのが楽しいだけでやっているのに。
 そのまま中学を卒業。部長から「馬術部に入ってウチでバイトしろ」と勧められたので承諾した。
 俺は当時、労働基準法を知らなかった。時給というものすら。
 朝5時から夜20時まで、週6で働いていたのに2万しか貰えなかった。15歳からしたら大金だったけど、おかしい事に気付く。
 『ブラック企業』という言葉が誕生した頃だった。意味について調べているうちに少しは知識が身につき、今の倍以上は貰えて当然だとわかる。
 母親に訊いたらその事を知っていると答えた。住み込みのバイトだから家に居ないのが助かるってだけ。我が子を安く売れるところが意味不明だった。居てくれなくても良い存在なんだろう。
 ラーメン屋に転職した。この頃に、YouTubeのオススメに出てきた、SkrillexのRock n' Rollを初めて聞いた。DUBSTEP・BROSTEPというイカした曲調を初めて知り、MVの格好良さに感銘を受けた。
 俺はこの曲を一度聞いて、「変わりたい」と思った。急に明るく振る舞うようになったと思う。お洒落したい、色んな服が着たいと思うようにもなった。高校生になった俺は、変化と成長をするんだってね。
 私立の高校だったので、学費はバイト代から工面した。校長先生に頼んで分割にしてもらったんだ。ちゃんと時給が出るから、14万は稼げた。今まではお婆ちゃんが助けてくれていたけど、ここなら毎月の学費を出しても余る額。貯金出来てると思っていたが、母親の衣類がドンドン増えていった。盗まれていたんだ。
 「お前の給料で買ったんだ」とハイヒールを自慢してきた。お婆ちゃんにどうにかしてくれと言ったが、何も言ってはくれなかった。だから嫌いになった。学費は知らず知らずのうちに滞納。退学する事になった。
 あまつさえ、ここでもお局に虐められた。それが直接的な原因ではないけど、こういう人生を歩んできた中で、いつしか希死念慮が取り憑くようになり、毎日何回も「死にたい」と言っていた。日々を過ごす事が苦行でしかなかった。自殺に関する事をよく調べていたし、遺書を初めて書いたのは小学生の頃だ。
 自殺方法は怖いものが多かった。手順も難しかったりする。一番楽で簡単なのが、車の前に飛び出す事。実行したのはバイト帰り。数秒前まで死ぬつもりはなかったけど、向かってくる車を見ていたら前に飛び出したくなった。

自殺未遂の時に経験した神秘体験。



 車にはねられ道路に横たわる俺。衝撃で歪んだママチャリも倒れている。それを、俺は上空から眺めていた。
 幽体離脱。幽霊なんて信じていないが、肉体から離れ、魂だけの姿で自分を見つめていた。
 その時、どこからともなく、男とも女とも分からない声で、「神はいる」と言われた。鼓膜を震わせているというより、直接脳に話しかけられているかの如く、不思議な感覚だった。
 次の瞬間、光のトンネルを突き進むかのように視界が白くなり、純白の世界に俺は居た。その時、ホラー映像でよくみる透き通った体すら持っていなかった。ただ、本当に魂だけがあるかのような状態。
 全ては一つだった。神と一体化した。真我としてそこに在る俺と、世界そのものが繋がっていた。梵我一如とは正にこの事。それに気付いた時、世界は色付き、肉体に魂が戻った。俺は、その日から有神論者だ。
 涙が込み上げてくる。近くのコンビニに身を移し、号泣した。その様子を見ていた通行人が救急車を呼んでくれた。
 病院に着いて担架で運ばれている時、看護師が俺の手を握った。その瞬間、声がする。
 「愛の為に生きよ」
 また涙が流れるが、意味は解らなかった。この言葉を理解するのに、数年を要した。

神社で働く蕎麦職人になった。



 ラーメン屋を辞めてニートになった。俺は会話が苦手で、人間関係を上手く築けない。社会不適合者とは正に俺の事。引きこもるのがお似合いだ。
 お婆ちゃんに食べさせてもらったり、母親に「盗んだ分を返せ」と言って取り返したりして、何とか食い繋いだ。
 そんな生活をして数ヶ月、親戚が地元で作られている蕎麦をご当地グルメにしようと、協議会を立ち上げた。俺に蕎麦を食べるよう言ってきた。
 正直あんまり蕎麦は好きじゃないから、期待していなかった。でも、初めて食べた手打ち蕎麦はとても美味しくて、修業する事を決意。
 授業料で2万かかる。働かねばならない。でも仕事探しをどうしていいかわからない俺は、派遣社員という手段を見つけた。勝手に仕事を探してくれた。
 工場で働くようになる。昼夜逆転していたのを良い事に、夜勤にした。
 勤務して数日後、お金を盗まれた。腹を立てて警察に被害届を提出すると言ったら、「お前の事なんて誰も興味ねえよ」、「お前のせいで工場を止めて違う仕事増やされなきゃなんねえのか?」と工場長に言われ、泣きながら退職すると言った。
 今度は夜勤を辞めて、日勤。夕方には帰れるし給料もそんなに悪くない。でも、仕事が合わなかった。単純作業は気が狂いそうになる。まるで自分が機械かのように感じる。ロボットの代わりは御免だ。
 工場は続かなかったけど、手打ち蕎麦は習得した。ニートだけど蕎麦打ちは頑張った。
 その後は2回コンビニでバイトしたけど、どっちも店長にキレて辞めた。
 客層は悪いけど廃棄が貰えるから、食費が浮いて良い仕事。でも、こき使われていると我慢できなくなる。フリーターだからと言って徹夜のシフト組まれたり、「挨拶を無視された!」と突然叫び、店に俺1人残して出て行った店長。
 また少しの無職期間を経て、今度は実家の建築会社で働いた。もしかしたらコンビニはその後かもしれないけど、もう覚えていない。
 実は小学生の頃、『将来の夢』を発表する授業で、「実家の会社を継いで社長になる」と言った覚えがある。夢が叶える機会を得た。でも、その期間は数日で終わる。
 俺は重度の偏頭痛持ちで、直射日光に長時間曝されていると吐き気と頭痛に苦しみ、身動きが取りにくくなって、意識・言語障害も出る。
 持病がなかったら続けていたかというと、そうではない。単純に社員達から「アホ」だの「辞めちまえ」だの言われるのがツラくて、現場で手首を切り、そのまま病院へ。そしてバックれた。
 俺は、人として扱われたい。大切にされたい。愛されたい。俺はストレスの捌け口でもなければ機械でもない。今ここに生きてる、1人の人間なんだ。この世のどこかにあるかもしれない、俺が居てもいい場所を探している。もう泣きたくない。吐きたくない。手首を切ったり、車の前に飛び出したり、こんなのやりたくてやってるわけじゃない。可愛がられたい。大事に扱われたい。本当は死にたくないんだ。
 「生きててもいいよ」
 「愛してるよ」
 今思い返せば、この言葉を、ずっと求めていたのかもしれない。「大好き」と言われれば舞い上がる。ずっと身内からも他人からも嫌われながら生きてきたから、好かれたかった。心が、渇ききっていたんだ。
 そこからまた無職になってしばらくして、実家の隣に住む人が起業すると聞いた。神社の境内に店を構える蕎麦屋だ。働かせてほしいと言った。そしたら、店の蕎麦は俺に任せてくれるという。
 ここで働いてから、俺は初めて「仕事が楽しい」という言葉を口にした。生き生きとしていたと思う。有神論者になったら神社で働けるようになった。神の思し召しに違いないと確信していた。
 自己実現を達成出来たと感じた。神主さんやお客さんに蕎麦を褒められると嬉しかった。また、自分の神秘体験に基づいて様々な話をするのも楽しかったし、逆に参拝客の方から神秘体験を聞く事もあった。
 神社で働いていると、神はこの世にいるのだと感じられる。哲学や宗教の考えをちょっとだけ深め、メメントモリとカルペディエムが俺の人生観として形成された。
 「死にたい」と連呼する日々の中で、いつしか「別に自ら死ななくても、人って必ず死ぬんだよな」と思うようになった。それに、明日も命がある保証は無い。今日が命日かもしれない。なら、今日死んでもいいように生きよう。いざとなれば自殺すればいい。そんな思想を築き上げた俺は、ある事を思いついた。

タトゥーを入れた!

 墨を入れてもらいたい。そう思うようになったキッカケは、モデルのZombie Boyだ。レディーガガのBorn This Wayに出てきた骸骨の人である。

 この人の画像を見てから、初めてタトゥーをカッコいいと思い、連日連夜、世界中のタトゥー画像を探し漁るようになった。俺も何か入れたい、その参考になるものはないかってね。
 和彫りは格好良いけど厳つ過ぎて俺には合わないから、タトゥーあたりのお洒落な意匠がいい。
 キッカケは、サクヤンという文化を知った事。タイのお坊さんは宗教的な理由で刺青を彫る。墨を入れれば一生消えないのだから、転じて、生涯信仰を続ける決意を表す。
 タイまで行って彫ってもらう必要はない。神様のタトゥーなら日本人にも彫れるから。大事なのは信心深さだと思う。


 そうして、左腕にガネーシャのタトゥーを入れた。年を取って色褪せてもいいようにB&Gにした。でも、眼だけオレンジ。ヒンドゥー教や仏教において、神聖な色だ。これで俺は、神様と一生一緒にいられる。あと、眼球だけ色付きは単純にお洒落。


 もう一つ、彫りたい絵柄があった。髑髏だ。骸骨は芸術において、死を連想させる意匠。つまり、メメントモリやカルペディエムを表す。ドクロの入った服は毎日身に纏っていたくらい、大好きなんだ。あと、率直に格好良い。何故か俺は、幼い頃から骸骨の魅力に取り憑かれている。

 ドクロに兜を被せた。お爺ちゃんが俺に兜をくれた事があったから。あと、和洋折衷で人と被りにくい絵柄になるからね。
 それと、肩の辺りに牡丹のタトゥーがある。これはドクロを彫ってもらう時に、「隙間を埋めてほしいから、オススメの花はありますか?」と尋ねたところ、「牡丹とかどうすか」と言われたので、二つ返事でそれにした。
 タトゥーは全部、19歳の時に入れた。「ノリで墨入れた」ってイキりたいから牡丹にしたけど、花言葉は『王者の風格』らしくて、ビッグボーイを名乗っている俺には相応しいと思えた。
 それから墨まみれの蕎麦職人として、年末年始は徹夜で蕎麦打ちをして、汗水垂らしながら頑張った。でも結局、師匠と馬が合わなくて辞めた。俺は陰キャだけど師匠は陽キャで、俺と完全に正反対の生き方をしている人だった。良い意味でも悪い意味でも、学ぶ事の多い時期だったし、この期間は無駄にはならない。むしろ、将来に影響を及ぼしたと想起している。

妻との出逢い。


 20か21歳くらいの話。
 師匠は最後に、こう言った。
 「宿題を出す。ここを辞めてからお前は彼女を作れ」
 それを言われた瞬間、時が止まったかのように感じた。そして、過去の神秘体験が脳裏に浮かぶ。
 『愛の為に生きよ』
 この言葉を実行する時が来たのかもしれない。そう受け取った。でも、上記の通り根暗の権化みたいな人生を歩んできたので、恋愛なんて俺には程遠い世界だと感じていた。
 「俺には無理だよ」
 「いや、そんな事ないと思う」
 物凄く軽い、適当な物言い。でも何故か、それを言われて自信が付いた。師匠は俺よりよっぽど豊富な人生経験を積んでいるので、そんな人から出来ると言われれば、出来る気がしてきた。
 それから俺は、ネットと本を駆使して恋愛や対人関係の勉強を始めた。そして、次の会社で実行した。

 後に婚約者となる女性が現れる。
 ビュッフェとラーメン屋、スーパー銭湯のフランチャイズ事業をやってる会社だった。
 中小企業だったら受かるだろうと思って行ったら、本当に採用された。しかも、県外に配属という厚遇。家を出たかった俺にはもってこいの話。
 所属になる店舗へ行った時、店の前で出迎えてくれたパートさんの中に、彼女は居た。一目惚れだった。

 俺の休憩中、彼女と話す機会があった。仕事終わり、フードコートで喋ってた。亡くなったお母さんの話とか聞いた。泣きながら話してくれた。俺は貰い泣き。
 『ミラーリング』や『同調効果』なんて呼ばれているものを聞き齧っていたから、咄嗟に真似して、共感してみせた。
 時間が来た別れ際、俺はいきなり抱きついた。人の目なんて気にせずに。
 突然の事に言葉を失った彼女。しばらくして俺は離れ、一言。
 「じゃあね」
 彼女は呟いた。
 「馬鹿…」
 俺は何事も無かったかのように、笑顔で手を振り、お別れ。
 翌日、彼女は俺に惚れたとLINEしてきた。
 彼女は、俺と約束した。2年間一緒に居れたら結婚しようって。その数字に意味があるのか訊いたら、占いだと答えた。意味がわからなかった。大殺界であろうと裏運気であろうと、結局は自分次第。でもまあ、目標に向かって突き進むのは好きなので承諾した。そうしてここから、結婚を前提としたお付き合いが始まったのである。
 2年前の4月3日。記念すべき初デート。
 愛知で、本当に愛を知れた。
 それからは、風来坊の手羽先を食った。

 数週間後、自分からちゃんと告白したくて、夜景の見えるビルの展望台で、12本の赤い薔薇を渡した。花言葉は『私と付き合ってください』
 彼女は受け取るなり、すぐさま泣きじゃくった。
 俺がロマンチストに成れた、記念すべき日。
 数ヶ月後、ハッキリと結婚したい意思を伝える為、船を貸し切った。

 名古屋の夜景を見ながらウットリ。俺は彼女をデッキに残し、「トイレへ行く」と言って中へ戻った。そこではコーディネーターが待っていて、108本の薔薇を用意してくれていた。花言葉は『永遠の愛』だ。10と8で分けて、「とわ」と読める語呂遊びからきている。

一度目の妊娠と会社倒産、あまつさえ破局。


 彼女が妊娠した。不安だった。社長から「10月下旬に東京へ出張だ!」と言われている時だったから。
 22歳頃の11月、会社は倒産した。給料未払いのまま。カードの返済額、30万。彼女の病院代、20万。
 初めて妊娠した子は、産めなかった。
 不幸の追い打ちは続く。東京から本社の滋賀県まで、社長から「来い」と呼ばれた。しかも、2回も行き来する事になった。どちらも事情を説明しはするけど、謝罪をしなかったのが腹立たしい。メールと郵送で済む事を、わざわざ新幹線と電車を乗り継がせて向かわせる意味もわからない。それに、俺以外にも家庭を持ってる社員やパートは沢山いた。そいつらを路頭に迷わせているのに、「仕方ない」と笑っていられるのが意味不明。社員を大切にしない薄情な奴等。今までが上辺で物言ってるだけだったと、これで明らかになった。
 社長が経営する、もう一つの会社へ移れと言われた。「これは社員の中の何人かにしか言っていたんだぞ」と、未だに偉そうな態度で居られる社長と本部に苛立つが、借金があるので呑気に転職活動はしていられない。大人しく働く事にした。
 社長が現場に立つ店だった。端的に言うとパワハラが酷くて意欲を削がれた。そっちの勘違いで人の頭を叩いておいて謝罪をしないからムカついて、いよいよ俺はブチ切れ。転職活動を始めた。
 上司も辞めるつもりだと言った。でも先を急ぐなと言う。ラーメン屋に異動させてくれた。そこは、俺がバイトしていたラーメン屋。店舗は違うけどマニュアルは同じだし、働きやすかった。でも、彼女との仲は悪くなっていた。
 帰る時間が夜中の2時や3時なんてあったし、田舎には娯楽も無いし、妻の精神的ストレスは溜まっていくばっかりだった。だから、無理もない。
 優しかった頃の彼女はいなくなって、冷たくなった。「別れたい」と毎日のように言うようになったので、別れる事にした。
 仕事から帰ると、本当に居なくなっていた。でも、涙は出なかった。2月の事だった。部屋には、3月に誕生日を控える俺へのプレゼントと、ラブレターが残されていた。
 メールや電話も無視されたのでもう帰って来ないと判断し、次の日の朝、店長に辞めると告げた。彼女を養う為に社員を続けていたけど、居なくなったらもう無理して残る必要もない。一旦実家に帰って、転職する事にした。
 それから数日、SNSで何人かの女とやり取りしながら気を紛らわせていた。でも、どいつもこいつもつまらない。彼女の代わりが務まる女なんていなかった。

ホームレス同士の復縁と、二度目の妊娠、そして結婚。


 何日かすると、Twitterに彼女からDMが着た。寄りを戻したいって。
 俺には、彼女を幸せにする責任があった。
 俺の誕生日に、また会った。ホテルで近況を喋った。3時間くらいだけだけど、幸せな時間。俺にはやっぱりこいつしかいないって、そう思えた。
 愛知県に住む事にした。実家を抜け出し、ネカフェに何日か籠っていた。彼女はボロい車を中古車に乗り換え、俺を迎えに来た。

 ホテルを転々としていながら、映画を観たりウインドウショッピングを楽しむなど、ニートを満喫した。でも、このままじゃまた貯金が底を尽きるので、どうせならこのままホテルで働こうと思った。そしたらなんと、アパートを借りるまでの間は住まわせてくれると言うのだ。宿泊代がタダになった。
 お金が浮いたのでアパートの初期費用を払えた。無職でも賃貸に住めるなんて思わなかった。
 あと、この時に母親と絶縁した。家を出てからも金をせびる連絡しかしてこないので、鬱陶しかったし関わる必要もなくなった。毒親と縁を切らないと、俺は幸せになれない。最後に10万だけ渡して、もう音信不通になろうと決断したんだ。
 仕事はというと、基本1人で作業してるし楽ではあった。借金を完済して、むしろ貯金が出来るようになった。でも、ホテルで働くのはやりがいが無い。
 俺は、今日死んでも良いように生きたい。勤務中に死亡する可能性だってあるのだ。
 例えば、蕎麦屋は良かった。長寿に御利益のある蕎麦を売っていたし、お客さんに感謝される事もあった。俺が作った料理が、最後の食事になった方もいる。
 こういう、何か特別な役割のある仕事って、良い。でも、ホテルはどうだ。清掃員なんて誰でも出来る。ロボットでもいい。簡単だけど頑張る意欲が湧かないので、こういう仕事は駄目だとわかった。
 それから俺は、給料よりもやりがい重視で仕事を探した。ファストフード店のアルバイトにした。本を読むくらい好きな会社だった。けど、「宅配をやらなきゃシフトに沢山入れられない」と言う。渋々承諾したけど、実際はシフトを削られたままだった。聞いていた話と違う。
 俺は運転が嫌いだから原付免許しか持っていない。原付は持ってすらいない。なぜかというと、人を殺してしまう危険性があるから。金の為だから安全運転を心掛けつつ仕事していたけど、恐怖は拭えない。でも頑張ったのは稼ぐ為。しかし、シフトは増えない。やりたくない仕事をしながら死ぬ人生は御免だ。辞めようと思った。
 そんな時、彼女が妊娠した。今回は少ないけど貯金はあるし、頑張って育児に取り組む心算でいた。
 そして、結婚予定日を4月3日から2022年2月22日にした。ゾロ目だから。
 店長に報告した。「堕した方が良いんじゃない?」と言われて言葉を返せなかった。こんな事を言う上司の所で働きたくない。退職すると言った。
 その後は、掛け持ちしていたネカフェのシフトに沢山入れてもらえた。清掃員をやっていたから仕事は初日から熟せたのもあるも思う。でも、背水の陣で退去を決めていたから、数日しか働けなかった。
 こうして、妊婦とニートのホームレスカップルが完成。いや、今やホームレス夫婦か。
 またホテルを転々としてる。外食と映画で1日を消費する、自堕落な日々。この生活が一番楽しい。でも、ずっとそんな事していられないので転職活動をしているが、なかなか上手くいかない。でもまあ、何とかなるでしょう。
 こうして人生をまとめて文章にしてみると、我ながら波瀾万丈な生涯だと思う。
 俺は普通じゃいられないから、開き直って変人でいるようにしてる。周りに合わせるのが苦手。だからこそ、自分の好きな事を追求して生きてる。
 これから俺は、どんな道を歩んでいくのだろうか?
 それは誰にもわからない。だからこそ、面白い。

流産と日雇い労働。



 2022年3月30日。時間に余裕があるのと人生に進展を齎したので、ここに記録する。
 妊娠からしばらくして、流産を経験した。泣いている妻を抱きしめる事しか出来なかった。出産するには高齢なので、こうなる事は2人とも危惧していた。だが、現実になるとツラいものだ。
 この生活は貯金が減っていくばかりなので、日雇い労働を始めた。工場や肉体労働しか無いものだと思っていたら、接客や飲食業があって助かった。俺の経験が活かせる。
 そうやって金を稼いで眠る毎日。色んな会社に落ちたり辞退したりを繰り返していた時、1つの会社に拾われた。介護施設の料理人だった。
 コロナ禍で倒産という痛手を負ったので、もう飲食業は卒業したかった。また倒産、あるいはリストラなんてのも嫌だ。
 日本は高齢化社会。介護の人手不足はよく聞く話。ツラいとも聞くが、料理人なら経験が活かせるし、その上で能力の幅が広げられて、自身の成長に繋がると考えた。ご高齢の方に料理を作るやりがいは、蕎麦屋で経験していた。人生最後の食事を作れた事に、特別感と重大さを感じている。
 ちょうど前職が所謂シフトマネージャーだったので、そういう仕事に就けるらしい。いきなり本社所属。期待されると重圧に押し潰されそうになるが、そこは俺の努力次第だな。まあ良い。正社員になれたのだから。
 介護関係は人の死に関わる尊い仕事だ。そして、学びがある。何故なら、お年寄りを見ていると、人生について考えさせられる事が多いから。
 「この人は他人に嫌われながら死んでいくのだろうか」
 「こういう人は死ぬ時に周りが泣いているんだろうな」
 そんな事を思う。人生について参考になる方が多い。
 さて、俺にとっての人生とは何なんだろうか?
 神秘体験によって神を信じるようになったが、小学生の頃は無神論者だったし、中学生になると不可知論が正しいと思っていた。だが、高校生で有神論者になった。
 実家が浄土教で職場が神社だった事もあって、神主や坊主と対話する機会がある。その中で、俺は神道とも仏教とも合わないと感じた。
 確かに俺は神が在ると考えているが、輪廻転生や因果応報も無いと思う。前世や来世を確認したわけでもないのに、どうして存在を証明できようか。それに、生まれた時から虐待や戦場下におかれている子供達に何の罪がある?
 理不尽に死んでいく人達は沢山いる。そんな方も「過去の報いだ」なんて、どうしても納得出来ない。
 神も仏もないと言いたくなる世の中だが、俺は神を見てしまった。だから在るのは間違いない。ここは、人知が理解出来る範疇を超えているのだろう。
 俺からしたら世界は白紙だ。そこに自ら筆を執って書き込んでいく。
 きっと、この世は神の悪戯。人生に意味は無い。だからこそ自由だ。
 俺は他人に神を信じるよう、強要しない。無神論や不可知論でも、考え方は好きにすればいい。幸せならそれでいい。他人に危害を加えない限り、人は自由だから、俺は無駄な干渉をしない。
 これをわかっていながらも、多くの人は行動に移していない。お節介の言いなりになって、操り人形同然になっていないか?
 人間は本来、他人に縛られず生きられるし、幸福を追求しやすい。そうあるべきだ。
 生を出発点に、死を目的地とする道。人生なんて死ぬまでの暇潰し。自分なりに歩みを進められる。今日死んでもいいように生きよう。
 人は至福を追い求める生き物。どうやら、活動しなければ幸福を感じないようだ。動かないと退屈を生み出し、苦痛に苛まれるだろう。そして、ただ仕事をしていれば幸せかというと、そうでもない。
 自分の能力を発揮した時、人は幸福を感じる。幸せへの欲求は、富や名声など、外的な要因では満たされない。それは海水の様なものだ。飲めば飲むほど渇きだす。
 内なる幸福。自分は何者で、どういった人生を歩みたいのか。それを長考して生産性ある活動をしなければ、幸せになれない。
 それは、俺にとって文章だった。有神論的ニヒリズムとでも言おうか。真っ白な世に、俺の魂を込めた言葉を書き殴る。
 この小説の主人公は己。決して、他人が主役ではない。あくまで脇役だ。そして著者もまた、自分自身なのだ。物語の結末は自分で決める。
 茨の道を突き進む。死ぬ時まで、枝分かれした道を歩む。それでも最後まで己で選択しよう。
 インド哲学によれば、この世界は夢幻という。確かに、真我こそ実在だ。とは言いつつも、この世はなぜこんなにも残酷なのだろうか?
 認識しなければ無い。そうわかっていても、目の前に見えてしまっている。視界に広がっている森羅万象は神の化身だ。神秘に満ち溢れている。それをあえて、俺は白紙だと言ってしまおう。
 地獄の如き世界に『努力すれば報われる』なんて無い。ブラック企業が蔓延っている。違法な言動に苦しめられ、過労死や自殺を選ぶ人がいる。終身雇用も神話になった。殺人や強盗のみならず、戦争だって無くならない。
 正直者が馬鹿を見る社会。絶望する者がいるのも無理はない。それでも、歩みを止めない。どうせ死ぬのだから、自ら死を選ぶ必要はない。死ぬまでの間は理不尽に立ち向かい、酔狂に生きよう。
 やりたい事を後回しにするな。
 『人生100年時代』と言われるようになって久しい。だが、そんな根拠がどこにあるというのだろうか?
 人はいつ死ぬかわからない。明日があると思うな。今日、たった今死んでいたかもしれない命だ。
 変えられない過去なんて悔やむな。わからない未来なんか恐れるな。現在を生きろ。今を充実させる事が、幸福な人生を築き上げる。それが、暗黒に光明を差し込ませる。邪悪がとぐろを巻いていたとしても、一隅を照らそうではないか。
 実践すれば、社会はちょっとでも明るくなる。他人を操作する事は不可能でも、己自身であれば操れる。自己でどうにか出来るものを重要視し、そうでないものは軽視しよう。自分の足元だけでも明るくする人がいれば、それは周りに影響を及ぼし、少しでも世界は明るくなる。環境が個人へ影響するように、個人もまた環境へ影響を及ぼす。
 自分に関係ない他人の問題に口を突っ込むなど、他者の課題に干渉してはならないのだ。気にするべきは自己の課題。己が出来る範囲で行動し、善く生きよう。
 自分の意思で活動するんだ。人生の時間は有限。脇役の為に浪費するものではない。主役の為に消費しろ。
 本当は存在しない世界。白紙だ。自分の好きなように描けるぞ。
 さあ、貴方ならこの紙に、何を書く?

三度目の正直で妊娠。


 介護施設の料理人は、遣り甲斐はあったけど給料が上がる職場ではなかった。あくまで介護なので、調理員より職員の給料向上に重点が置かれているし、先輩方を見ていても、出世コースが用意されている訳ではない事はすぐにわかった。ほぼ定時上がりで疲れる職場ではなかったけど、妻も妊娠してお金が今まで以上に必要になった状況なのもあり、1年ちょうどで退職し、蕎麦屋に転職した。
 元々、日雇いで通っていた蕎麦屋だ。だから仕事の勝手はある程度わかるし、経験者という事で社長などの面接官からも評価が良く、あまり質疑応答もないまま、採用が言い渡された。
 入社して1カ月経ったところで、この記事の加筆修正を始めている。
 今のところ、上手くやれている。大勢と関わる仕事だから、これから嫌な事も湧いて出てくるだろうけれど、家族の顔を思い浮かべながら、必死に汗水流すしかないと考えている。
 そして、特筆しなければならないのが、3月に子供が産まれた事。子供が産まれてからは、一人称を「私」に変えた。現実での一人称は「ワシ」を使うようになった。それと、冒頭では「こんな世界なら産まれなかった方がマシだ」みたいな趣旨を書いたけど、子供が出来てからは、そう思わない。そう思わせたくない。
 生きていて良かったと思う。我が子というのは、とても可愛い。物凄く可愛い。
 私は子供に、夢や目標は努力すれば叶うんだって事を教えたい。だから、私自身が夢・目標を叶えてみせる。

 その為に、死ぬまでにやりたい100のことを、全て叶えようとしている。その中のいくつかは既に叶え、全部の夢を叶える事も目に見えてきた。
 100個全ての目標を達成し、長年夢見た至福を手にする。このブログは、その目的地に至るまでの、成長記録である。

神様からのお告げを理解した話。

 私は15歳か16歳の時、自殺をしようと試みました。走る車の前に飛び出し、死のうとしたのです。
 ちょうどその年頃の時は希死念慮に苛まれており、一切皆苦な世に嫌気がさしていました。ですが、その行為に至る直前まで、死のうと考えていたわけではありません。
 バイト帰り、こちら側へ向かって走る車を見たら、吸い込まれるように飛び出してしまったのです。

 最初に申し上げておくと、私は幽霊の存在を信じていません。
 車にはねられた後、車道の真ん中で倒れる自分を、斜め上から見ていました。
 「幽体離脱してる…!?」
 吞気なことを思っていると、どこからともなく、男とも女ともわからない声で、それはまるで脳内に直接語り掛けてくるように、「神はいる」という言葉が聞こえました。
 その直後、視界の中央に現れた眩い光のトンネルに吸い込まれ、真っ白な世界に包まれました。
 純白の空間で、私は神と一体化したのです。これはワンネスだと今ならわかります。
 「神様はいたんだ。これから神様を信じて生きよう」
 そう思ったのも束の間、体に意識が戻っていました。何故だかわかりませんが、涙がしばらく止まりませんでした。

 救急車で病院に運ばれ、廊下を担架で通っている時、まだ泣いている私を心配してくれた看護師の女性が、私の手を握りました。その瞬間、「愛の為に生きよ」という声が聞こえました。
 「神はいる」は自分でも不思議なくらい素直に受け止められ、有神論者になれました。ですが、「愛の為に生きる」という事がどういう事なのか、それを理解するのに数年かかりました。いや、未だに解っていないと言えるかもしれません。
 それは、気軽に解けない難題だからです。

 神様を信じるようになった事で、「蕎麦職人にならないか」という話が私に回ってきました。親戚の蕎麦協会の会長からです。
 これがどうして神様に繋がるのかというと、私は神社の境内にある蕎麦屋で修業する事になったからです。
 神様の傍で仕事出来るようになったのは、神様の計らいに違いない。私はそう固く信じています。
 そこでは、参拝客に宗教的な話をするようになっていました。

 神様を信じるようになってから、自分の体験が何だったのか、詳しく知りたくなりました。宗教や哲学の本を何冊も読み漁り、インターネットでも検索しまくり、市内の神社仏閣を殆ど回りました。
 そして、私の体験は不二一元論の梵我一如だったと、理解するようになりました。
 さらに臨死体験についてググってみると、私に近い体験をしている人が国内外にいると知りました。そして、私のような無神論者だった者でも、神秘体験を経てスピリチュアルの世界へ飛び込む人は多いようです。
 あの時の体験は、目覚めだったのだとわかりました。そして、神様を信じた瞬間に涙が溢れ出たのは、神の愛に包まれて感動したからだと、今になって思います。

 私の妻は、女神の化身なのだと思います。
 「愛の為に生きよ」
 この言葉だけはずっと理解出来ずにいました。
 修業を終えて、フランチャイズ事業の会社へ転職した時、後に妻となる女性に出逢いました。
 妻を初めて見た瞬間、私はこの人と結婚すると、何故か確信したのを覚えています。女性と手を繋いだ事すらなかったのにも関わらず。
 今になって思うのは、妻と出逢う事すら、神様に定められた運命だったのです。
 私は妻と交際するようになってから、心の底から幸せを感じたのを、昨日の事のように覚えています。
 死を決意するくらい苦しんでいた人間とは思えないほど、至福を感じました。
 そして、理解したのです。愛こそが幸せであると。

 現在は結婚して子供を授かり、子育てに奮闘にしています。簡単な日は一日としてありません。
 毎日、愛の為に生きています。
 神様があの時言ったのは、この日常の事なのだと、今こうして文章を書きながら理解しました。
 神様のお告げを理解させる為に現れたのが、妻なのかもしれません。だから、妻は女神の化身なんだと思います。

 「愛の為に生きよ」
 この言葉を、今度は私が言う番なんだと思います。これを使命だと感じています。
 私は何故か幼い頃から、文章を書きたい衝動に駆られる事があります。それはまるで、ハイパーグラフィアのように。
 私は誰かに、何かを伝えたい。
 ぼんやりとしたその想いが具体的になってきたのは、メメント・モリやカルペ・ディエムといった格言を知るようになってからです。
 自殺が未遂に終わってから、「別に無理して今日死ぬ必要ねえよな」と思うようになったのです。
 自ら死を選ばなくとも、人はいつか死ぬもの。そんな当たり前の事を、ようやくわかりました。
 そして、こうも思うようになったのです。
 「今日は死ぬのに相応しい日なのか?」
 自殺未遂をした日は、退屈なアルバイトをしていた帰り。あの時死んでいたら、私の人生は何だったんでしょうか。とてもつまらない人生で終わりだったんです。
 それから、『死』について考えるようになりました。
 人間は、災害や事故などで、いつ死ぬかわからない人生を歩んでいます。だからこそ、今日死んでも後悔しないような生き方をしたいと思うようになりました。
 どうしたら後悔しないか。どう生きたら、満足な生涯だったと言えるか。答えは、幸せな一日を過ごす事。
 そして、幸福とは何か。それは、愛である。
 これが、私の出した結論です。

 『愛』は、私にとって、家族です。自分と妻子の為に生きる事が至福です。その事を理解して幸福に至れたのだから、この幸せを共有したいと思います。
 私が執筆の衝動に駆られるのは、自分の神秘体験から学んだ事を人々に伝える為なんだと思うんです。
 もし、生きる事に悩んでいる人がいるのなら、この言葉を届けましょう。
 「今日死んでもいいように、愛の為に生きよう」

ホームレス家族になり、生活保護を受給した。

 蕎麦屋ではパワハラ・モラハラを受けていました。半年間耐えたある日、当日退職をSVに申し入れました。
 本社に何度も通報と相談をしたけど、何ら改善されなかったし、向こうから「私達から貴方の上司に言っても効果はありません」と言うので、「じゃあ辞めるしかないな」と決断した次第です。
 その日のうちに不動産会社へ行きました。東京へ引っ越そうと思ったからです。
 抱っこ紐をして入店した私を見て、「子供入居禁止の所に子供と一緒に住まわれているので、規約違反になりますから、2週間後に退去してください」と言われました。
 後で調べたら、急な退去を勧告するのは違法らしいですが、ゴネて長居してもずっと不愉快ですし、大人しく出て行く事にしました。
 出ていくまでの間に、宅建協会の勧めで厚生労働省に通報しましたが、音沙汰もありません。退去日になれば当たり前のように不動産会社が立ち会いに来たし、厚生労働省には何もしてもらえませんでした。
 まあ、自分の方から不動産会社に言う事もありませんでしたし、仕方ないと思う事にしました。そう思わないと、危うくアナーキズムに目覚めるところでした。
 理不尽な気もしますが、すぐにでも東京へ行きたかったので、好都合と捉える事にしました。とはいいつつも、色々と不動産会社へ電話しました。
 保証人がいないと駄目か、預貯金が何百万がないと無理とか言われたので、どこにも借りれない事がわかりました。なので、ホテルを転々としながら生きていく事にしたのです。
 こうして、住所不定無職の家族が出来上がりました。
 人生で二度目のホームレスです。
 今回はSNSで他のホームレスの方と繋がり、生活の仕方を教わりました。
 NPO法人に相談し、シェルターに入り、生活保護を受給するよう言われました。
 2ちゃんねる創設者・ひろゆきの切り抜きを見るなどして、生活保護受給の為に知識を蓄えていました。
 水際作戦と呼ばれる、あの手この手で受給を拒否する手法はしてきませんでした。むしろ、「こうした方が通りやすい」と、丁寧に説明してくださいました。
 そして、ホームレス生活が始まってちょうど1週間で、生活支援施設に入居しました。
 そして、人生で2回もホームレスを経験して思いました。
 落ち着いて寝られる家がある事の有難み。美味しい食事がお腹いっぱい食べられる有難み。
 今こうして、家族と一緒に暮らせる事が、幸せなのです。
 ずっと一緒に居たい。職場に居る時間は苦痛でしかない。だから、労働者である事を辞めて、生活保護になれて、本当に良かったです。
 学生時代から労働は苦手でした。いや、人間関係が上手くいかないと言った方が正しいかもしれません。
 普通の人は、ある程度言葉を省略して表現されても適切に捉えられたり、文字通りの意味じゃなくとも相手の意図を汲み取れるそうですが、私はそれが出来ません。だから、人と上手く会話出来た経験が無いのです。
 私が学生時代に虐められてきたり、職場でパワハラやモラハラの対象になりやすいのは、自分のそういう所に原因があるのだと思っています。
 私は社会不適合者なのです。
 今まで健常者の枠組みで生活してきましたが、幼き頃に「お前は発達障害の診断をもらったことがある」と、一度だけ言われた事があります。
 母親が言ってました。その場に居たおばあちゃんが否定しなかったから、多分事実だと思います。だから、本当は健常者と一緒に働かない方が良いんだろうと思うのです。
 自分でも、ネットにある自己診断チェックで試しました。確かに、自閉スペクトラム症と出ました。アスペルガー症候群と出るサイトもありました。
 思い返せば、保育園の頃から、一緒のクラスメイトよりも、特別支援学級にいる子達と仲良く遊んでいた覚えがあります。そういった人達の方が、私も心を開きやすかったからです。だから、自分から「特別支援学級へ移りたい」と母親に何度も言いました。自分が普通じゃない事くらい、小学生の頃から分かってましたから。でも、母親は私が発達障害である事を隠し、他の子達と一緒に普通のクラスに通わせました。
 その行動は私の為ではなく、自分の世間体を重要視しての事です。
 「周りと一緒の事して!」
 「なんでこんな事も出来ないの!」
 「頭がおかしいんだよお前は!」
 こういったセリフを毎日聞いてきました。叩かれた数は数えきれません。
 周囲と同じようにしたくても出来ないトラウマが、今の、同調圧力に反発したい心情を育んだのだと思います。
 人と違うからこそ、自分は素晴らしい。そうやって、必死に己を肯定しました。
 周りと同じ様にしか出来ない奴等とは違うんだ。そう思って、他人への警戒心を強めました。
 じわじわ、精神を病んでいきました。あまつさえ、私は自分の殻にこもるようになりました。身内とすら口数をきかない人間になり、誰とも話せない人間になっていました。
 地元に居た時は、本当に頭がおかしくなっていました。
 何も分かってない人が、私の生き方に兎や角言う時もあります。気にしません。毒親から逃げるにはこうするしかなかったから。
 ゴミ屋敷の機能不全家庭に居るくらいなら、ホームレスの方がマシだと判断したんです。
 私は、生きる為に路上生活者となりました。そこから社会復帰したけどまた脱落し、2回もホームレスを経験しました。
 それでも私は生きてる。今まで散々苦しい想いをしてきた分、これからは幸せを感じたい。それだけの為に。
 その点について考えると、やっぱり労働はしたくありませんでした。妻と子供を置いて、8時間以上も家を離れる必要があります。家族を養う為に、パワハラやモラハラを受けてきました。これは自己犠牲の正義だと、無理矢理自分を納得させていました。これで良いんだと思い込んでいました。
 本心はそうじゃない。
 私は家族とずっと居たい。暴言や暴力を受けるなんてもうウンザリ。私が何も出来ない出来損ないなのは十分わかった。そう思って、生活保護は躊躇いもなく申請出来た。
 今まで住んでいた賃貸より広いシェルターに住まわせてくれたし、月収30万の人の手取りくらい生活保護費が出ます。医療費や水道代などが免除されるから、むしろもっと得しているくらいです。
 嘔吐や頭痛、食欲不振などの症状を堪えながら、つらい想いして働いていた自分が愚かに見える。労働者であるより、生活保護の方が豊かな生活が出来る。
 なんでもっと早く利用しなかったんだろうと思うくらいです。情報弱者で物を学ぼうとしてこなかった自分が情けなくなりました。
 それでも、今の私は、物凄く幸せだよ。
 学生時代から、働く事に抵抗があった。人間関係を築くのが得意ではないから、先輩や後輩と上手く意思疎通が取れないし、顧客にも迷惑をかけてきた。
 私は、働かずに生きていきたかった。その夢を今、叶えてる。
 一日中、子供と一緒に居られている。家族との時間を大切に出来てる。自分の心理的安全性を確保出来てる。今が、人生で1番幸福な時ではないか。
 愛の為に生きてる。
 ここに至るまで様々な苦難がありましたが、これも全て、現在の生活を手に入れる為だったと思うと、必要な代償だったのだと考えられるようになりました。
 そして、生活保護を受給した事により、死ぬまでにやることリストを全て達成しました。

 毒親から育児放棄を受けつつ、ここまで生きてきました。
 それでも私は、自分なりの幸福を掴んだのです。
 夢の大小は置いといて、自分のやりたかった事を100個もやりました。
 そして、第二のやりたい事リストを作成。

 今度は数に制限はありません。
 やりたい事をやりたいだけ、やる。人生を謳歌する為に。
 私は自分の幸せを諦めない。

ナマポ家族になってみて。

 父親は幼い頃に自殺してて、顔も名前も知りません。
 母親も、最近は顔を思い出せません。
 よく暴言と暴力で傷付けられた覚えはあります。なので、ちょっとでも他人から否定されると、恐怖と嫌悪に襲われます。
 母は男の所へ行って、帰ってこない事がしょっちゅうでした。だから公園の水を飲んで、腹を膨らませていました。
 家のインフラはよく止められたので、風呂に何日も入っておらず、洗濯すらしてもらえないのは当たり前でした。
 同級生はもちろん、担任の先生からも「臭い! ちゃんと頭洗ってるの?」と言われる始末。
 「洗ってない」と答えたところで、児童相談所に報告してくれるわけではありませんでした。
 学生時代は虐めに悩まされていました。登校を拒否する私を、母は殴ってでも家から追い出しました。あまつさえ、学校でも暴力を受けるので、私はずっと苦しい思いをしてきました。
 2km離れたお婆ちゃん家に逃げた事もありますが、母親に密告されただけで、匿ってはくれませんでした。
 保育園の年長さんの時も一人で歩いて、お爺ちゃんに助けを求めに行きましたが、やっぱり連絡されました。
 どこにも私の居場所はありません。
 頑なに学校へ行こうとしない私を、「不登校になったのはお前が甘やかして育てたからだ!」と親戚一同が母親に言ったらしい。そのせいでまた、私は怒鳴られました。
 私は身内以外からも、「甘やかされたんだ」みたいな言い方をされてきました。
 そう言う人達は、私の何を知っているんでしょうか。
 毎日、誰かに殴られながら育ちましたか?
 お腹が空いたからって土を食べた事がありますか?
 家に帰っても暗い部屋にひとりぼっちだから、近所のインターホンを押して回った事はありますか?
 私は「生まれてこなければ良かった」と、心底思いました。幾度となく、その言葉が脳裏に蘇りました。
 リストカットをした回数は、数え切れません。自傷癖のみならず、自殺行為もした事あります。
 甘い蜜を吸って生きてなどいないのです。むしろ、苦い汁を舐めながら生きてきたのです。
 「高校に行く金は用意してないから、中卒で働いて」って親に言われた時の悲痛。
 自分のバイト代で私立に通ったのに、給料を何ヶ月にも渡って親に盗まれて退学した時の殺意。
 就職先なんてあるわけなくて、経歴詐称し、両親は事故で亡くなった事にしてきた慙愧。
 小学生の時から、文房具やノートすらなくて、誰かに借りてやり過ごしていました。お金が無いから、修学旅行も行けませんでした。中学生の時、皆は弁当なのに自分だけ無いから、トイレで時間を潰して泣きそうになりました。
 お袋の味を、私は知りません。
 私に言わせれば、高校や大学に入学した時点で甘やかされています。否、「大切に育てられた」という表現が適切でしょうか。
 そう思うと、今の自分は頑張って幸せを掴んだんだと感じます。若い頃に比べれば、笑顔が増えました。
 何故なら、生活保護のおかけで、衣食住に困らないからです。
 こうやってナマポの話をすると、理解のない人に絡まれる。でも、私は決めました。もうそんな奴にいちいち構わない。
 身内と縁を切り、地元を思い出すようなものは全部捨て、上京した。
 私は今、幸せです。だから、否定してくる人と関わりたくないんです。
 本当に波乱万丈な人生を歩んできました。ホームレスに2回もなったんです。そんな自分を支えてくれたのは、愛する妻と息子。
 高い家や車は持ってない。でも、二つとない大事な家族がいます。
 世間体より、自分の幸福。ようやく、幸せを手に入れました。
 「自分は幸せ」と毎日何回も言い聞かせる事が大事なんだと思うんです。

言葉が世界を作っている。自分の理解出来る範囲しか見えていないから。

 普段から使っている言葉が、その人を表します。
 罵詈雑言など汚い言葉を用いていると、邪悪な人になります。
 品行方正で清い言葉を使っていれば、善良な人になります。
 「私なんか駄目だ」とか「どうせ出来ない」みたいな言葉を使っていると、本当に何も成し遂げる事は出来ないでしょう。ですが、「私なら出来る」、「やれば出来る」と常日頃から言っていれば、努力する事で成果が出せる可能性があるのです。

 自分の言葉を一番聞いているのは、自分自身です。だから、他人から下品な言葉を投げかけられたとしても、いかように解釈するかは自分次第です。
 「この人はこう言ってるけど、私は素晴らしい人間だ」
 そう思っていれば、人から棘のある言葉を吐きかけられたとしても、傷付く事はありません。
 これは、自分に言い聞かせる呪文みたいなもの。
 言葉が自分を成形し、人生を構築しています。ならば、より良い人生を築くべきではないでしょうか?

 『言葉が世界を作る』と私はよく言います。後で調べたら、言語学者のソシュールが似たような主張をしていました。 

コトバは人間とは別に存在する何かを言い当てるモノではない。

何らかの実体の存在がコトバの違いを根拠付けしているのではない。

コトバによって世界は分節され(別けられ)認知される。

https://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/99s1/saussure.html

 沢山の言葉を学ぶと、その分色んな表現が出来るようになり、世界の見え方も変わってくる。それは、色眼鏡の付け替えに過ぎないのですが。
 また、他にもブロガーが記事にしていました。

臨床心理学、文化人類学、社会学

社会構成主義に基づく考え方で、

核となる主張は「現実は社会的に構成される」「言葉は世界をつくる」です。

簡単に言うと、人は自分を取り巻く世界をありのままに捉えて理解するのではなく、人は自分の持つ認識の枠組みや知識を使って 世界を理解し、自分なりの意味づけをするという考え方です。

https://ameblo.jp/aya1751/entry-12329766325.html

 『価値』という単語を用いるから、物には価値があるように見えるし、『意味』を知ってしまうから、そんなものがあるかのように思えてしまう。
 本当は、この世に意味や価値などありません。各々が勝手に思い込んで決めつけて、それが争いを生んでいるのです。
 私が言いたいのは、「普段から言葉遣いに気をつけたい」です。
 小難しい言語学者の話なんて分からないけど、言葉の使い方が大切なのは私でも解る。
 例えば、量子力学を学べば、その視点を持てるようになる。でも、誰にだって分かる範囲には限界がある。
 私は算数が苦手だから数学の視点は持てないけど、スピリチュアルならある程度は解ります。
 これが私の理解できる範囲内なのでしょう。
 「後ろ向きな発言はやめて、前向きな言葉を発しよう」という、界隈では当たり前の事に立ち返る事にしました。
 初心忘るべからず。
 私は、生い立ちや育てられ方等、暗い話を書いてきました。それはあんまり、明るくて幸せに満ち溢れる未来を導くものではありません。反省。
 もっと綺麗な言葉を使って生きていたい。「良いね」とか「面白い」を口癖にするくらいじゃないとね。
 もっと日々の幸福や感謝に気付いて、煌めいた世界を生きていたい。
 その為にも、言葉を書き残す作業が大切になってきます。
 良い事だけを残して、嫌な事は忘れよう。
 後で読み返した時、幸せに繋がる事柄だけが、そこにあればいいんだよ。
 言葉が煩悩なんだからね。

どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか?

 「死にたくないから」でしかないんですよね。
 人間は本能的に死への恐怖を抱いていて、自殺には抵抗があります。
 私は寿命や運命で死ぬその時まで、待っています。とどのつまり、「人生は死ぬまでの暇潰し」って事です。
 そして、こうも思っています。
 「今日は死ぬのに相応しい日か?」
 なぜそう考えるかというと、今日死んでもいいように生きたいからです。
 人はいつ死ぬか分かりません。命日は今日かもしれません。だから、やりたい事をやるようにしてます。
 食べ、飲み、笑いたいのです。
 そして、幸せでいたい。子供を抱きしめていたい。
 これが私の生き方です。
 見つけたんです。ようやく。

キルケゴールは

自己や主体性というものを

重大視していて

それを持たなければならないと言っています

なぜなら自己や主体性がない人は

周囲の人々や世間や社会に

流されやすいからです

主体性をなくして

ただ世間に埋没して

流されて生きるとしたら

その人は果たして

自分の意志でそう生きているのか

ただ生かされているだけなのか

わからなくなり

それはすなわち自己(主体性)の死です

つまり死にいたる病とは

主体性の喪失のことです

肉体的には生きているのだけど

ただ外部に流されているだけで

自由意志も主体性もないので

死んでいるのと同じなのです

http://www.alived.com/fumi/d09.html

 自分が成りたかった姿ってなんだっけ?
 ふと考えた時、自分が成りたい人なんていなかったんだとわかりました。
 私は私なりの生き方を探しました。何も考えず他人の真似事をしても、それは自分の人生を生きているとは言わないから。
 真似をする時は、意識的な選択でなければならない。
 自分の意思で選んだ人生に、後悔はない。
 『なぜ生きるのか?』の問いの次に、『どう生きるのか?』を考えてみましょう。
 ソクラテスは「善く生きろ」と言いました。
 私は、「今日死ぬと思って生きろ」と言います。
 古の言葉に、『メメント・モリ』があります。説明を引用します。

古代ローマでは「将軍凱旋式のパレードを行った際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」という戒めを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。

ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むべきだ、今は気ままに大地を踏み鳴らすべきだ)とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA?wprov=sfla1

 多くの人達は、まるで死ぬ事を忘れているかのようです。当たり前のように明日が来ると思っています。しかし、確証は無いのです。
 いつ死ぬか分からない。
 さっき死んでいたかもしれない。
 「明日死ぬと思って生きよう」みたいな意見もあるけど、明日じゃ駄目なんですよ。だって、今日が命日かもしれないから。
 事故や病気で突然亡くなる方の報道は、毎日いくつも流れてくるでしょう。次は自分の番かもしれないですよ。
 5分後には、この世にいないかもしれない。だからこそ、人生を謳歌しよう。
 人の目を気にして、他人の人生に脇役として出演するべきではない。自分の人生を主役として生きるべきです。なのに、他人に振り回されたりしてしまいますよね。
 では、ここで貴方へ問いかけます。
 「死ぬのが嫌だ」
 そう思える事がありますか?
 あるのなら、何故そう思うのか、深掘りしてみましょう。
 「音楽で成功したい」、「世界一周したい」、「好きなアニメを最終回まで見たい」など、様々な夢や目標があり、それを成し遂げるまで死にたくないのだと思います。
 人はいつ死ぬか分かりません。1分後、事故や天災で死ぬかもしれません。
 今日が命日でも後悔しないよう、自分の幸福を追求して生きるべきなのです。
 そうしていい権利を、「愚行権」と言います。
 「他者に実害を与えない限り、例えかだと言われる動も、本人がやりたいならやってもいい利」です。
 例えば、芸人を目指したりすると周囲から馬鹿にされるかもしれませんが、「人を笑わせたい」と本人が思っているならやってもいいんです。
 貴方は本当にやりたい事をやり、今すぐにでも幸せになるべきなのです。
 今日死ぬかもしれないのに、1度きりの人生で夢を追いかけないなんて、もったいない。
 やりたくない事をやり、残された時間を浪費していいのでしょうか?
 あなたの人生はあなたの物です。
 考えてみてください。
 もし今日死ぬなら、何をするでしょうか?
 「あの人にお礼を言いたい」
 「あの人に謝りたい」
 「やり残した事を、ちょっとでもやっておきたい」
 色んな事を考えると思います。それをやりましょう。
 この死生観を持っておく事で、本当に人生最後の日、幸福なまま死ねるでしょう。
 ただ、悪く思われやすくて、堕落した怠け者の幼稚な理屈として、爪弾きにされる思想ではあります。
 はたして、そうでしょうか?
 私が見た神は、神託においてこう言いました。
 「愛の為に生きよ」

『愛の為に生きる』とは、どういう事か?

 2024年で26歳になりました。
 25歳は人生で最高の年になりましたが、26歳も同様に、最高の年にします。
 そう常に心がけていたい。
 「10代の頃が人生で一番楽しい」と言う大人にはなりたくないと、学生時代から思っていました。
 私は、毎日が最高に幸せな日になるよう生きています。
 「今日死んでもいい」
 そう思える人生を生きています。
 これは決して、自暴自棄ではありません。大切に一日を生きているという事です。
 色んな物事を、難癖つけて否定する事は簡単。適当な理屈を捏ねて投げつければいい。でも、そんな人生はあまりにも退屈です。
 楽しんでいたい。
 本当は、何かにつけて物事を否定してしまう自分が嫌なんです。
 自分は愛情が欠けている。受けた愛情も、与える愛情も。
 「見返りを求めない、無条件の愛ってなんだろう?」
 そう考えた時、ハッとしました。
 「自分を愛さなきゃいけないんだ!」
 『愛の為に生きる』とは、すなわち『自分の為に生きる』という事。
 私の人生に欠けていたのは、自分を愛する気持ち。自己愛が失われていたから、あの時、自殺を試みた。失敗に終わったから「愛の為に生きよ」と神託があった。
 そうだ。これで全部、繋がった。
 もっと自分を愛し、この人生を大切に生きよう。そして、家族の事を愛して、幸せな生涯を完成させる。
 これが、幸福な人生です。
 「家族と仲良く過ごせたら、それだけで幸せよね」なんて、多くの人が頷ける意見だと思いますが、実現出来ている人はどれだけいるでしょうか?
 世界には、愛の欠けた出来事が多発しています。
 海外では今日も戦争が続き、日本でも政治的な揉め事は治まらず、世界各国で暴言暴力が飛び交っています。
 世の中、生きづらくないですか?
 正解が溢れて、ちょっとでも間違ったする人がいれば、罪を犯したと言わんばかりに、魔女狩りの如く叩きのめそうとするじゃないですか。
 そんな世の中について古舘伊知郎氏は、成田悠輔氏との対談で、こう語っています。

成田が古舘に最後に問うたのは、今際の際(いまわのきわ)に古舘のことを知らない若者に何を伝えたいかということだった。少し考えた古舘は「思いっきり楽しく間違ってくれ」と答えた。

「君が生きる世界は確実に間違っているから。人間が生きるということは、基本的に間違えるから……。でもそれが人生だと思うので間違っているからって気にしないで。でも間違っていると思って思いっきり間違いを生きて」。死ぬまでしゃべっていたいと思いながらも、報道番組を担うことで言葉を自制した経験を持つ古舘の言葉は重い

https://nordot.app/1125372045256147924

 現実で楽しく喋ってる友達でさえ、実はネットリンチに加担している可能性さえある時代ですよ。
 この現状では、情報発信などの行動を起こそうという時に、二の足を踏んでしまうのは仕方ないと思うんですよ。
 挑戦したくても、間違いなどの失敗をしてしまった場合、先行者に誹謗中傷されるのではと恐れおののいてしまいますからね。
 変えなくてはならない。そう思いませんか?
 さて、昨今、「老害」なる言葉が日本で流行しました。若者が御年寄に対してどう思っているかを表しています。
 日本社会の次世代を担うのは彼らは、世の中を変えたくても変えられない現状に、もどかしさや諦めを抱いているのです。
 高齢者には、頃合を見計らって一線を退いて頂くのが、日本の為になるのではないかと思うんですよね。引退して年金を受け取り、免許は返納し、趣味などで人生を謳歌してもらう方が日本の発展に繋がるのではと、戯言を吐き出してみます。
 大御所や重鎮、既得権益がのさばると、若者が生きづらいんですよね。
 ブラック企業が未だに殲滅出来ないのは、昭和の思考をいつまでも引きづってる人がいるからですよ。
 そのせいで数え切れない人が自殺や過労死で亡くなっているというのに、人の命を奪う会社が無くならないのは、何故だと思いますか?
 高齢者が日本社会を作っているからです。多数派の意見だからです。年功序列の会社で有給を使わず、サービス残業をするのが正しい働き方だと思い込んでいるんです。
 世代交代が必要だと思いませんか?
 「電車の席は譲るから、会社や社会の意思決定する席は譲ってよ」と言えない若者にも、非があるのかもしれません。だからこそ、愚行権を行使しようと呼びかけています。
 「黙ったまま、虐げられたままで良いのか?」
 そう己に問う時、心は「OK」と返すでしょうか?
 自分の意見を押し殺して生きるのは、我が人生を歩んでいるとは言えません。声を上げ、意志を表明するのです。
 愛の為に生きるには、話し合う事を避けられません。
 衝突して暴動を起こせと言っている訳ではなく、積極的な議論は必要な手段であるという事。
 ただ、分かり合えない相手もいます。皆が皆、笑顔で手と手をとって協力し合えるかというと、そうではない。そこまで人間は綺麗な生き物ではないみたいです。
 それでも、愛を捨てたら地獄が待っている。
 自分の愛を受け取ってくれる人は、どこかに居る。愛を贈り合える同士の共同体を居場所とするのが良いんです。
 世界が平和である為には、自分の身の回りだけでもより良くしようと心掛ける言動が大切。
 天台宗の開祖・最澄の有名な言葉に、『一隅を照らす』があります。

 「真心」と云えば誰もが思いやりやいたわり、愛情あることと思い浮かべます。さらに字引きには「偽りのない真(ほんもの)の心で混じり気のない濁りなく澄んだ心のこと」とあります。正に仏さまの御心と云えます。

 延暦寺を開かれた伝教大師最澄上人は、この世の全ての人びとが安泰(平和)で幸せであるようお祈りをなされながら、「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という教えを示されて、自分が世間の目立たない処に在っても、又自分の力が目立たない力でも真の心に努め、尽くすことの大切さを説かれ、そのような人を国の宝として比叡山で育てる

https://www.hieizan.or.jp/kotoba/kotoba-h27#:~:text=%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F,%E3%81%A7%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%92

 この言葉と、ソクラテスの『善く生きる』も、『愛の為に生きる』と同義だと考えています。
 仏、善、愛。
 全ては繋がっています。

今日死ぬと思って生きろ!

 最近は、「小生」という一人称を気に入ってます。
 この記事は何年も書けて加筆修正してきたので、一人称がコロコロ変わっています。
 その時々の、自分の言葉を大切にしたいので、そこは変えずにいます。
 言葉を、大切にしたいんです。
 ここで、素敵な言葉を引用します。

世界が間違いを犯そうとするとき、君はそれを止める力を持てるか。

君はそれを止める言葉を持てるか。

世界が愛を見失いそうになっているとき、君はそれに光をあてることができるか。

君はその光に仲間をあつめることができるか。

世界を動かそうとするとき、君はまず目の前にいるひとりを動かさなければならない。

そのひとりの胸のなかにある心を動かさなければならない。

つまりそれは、ひとりの心を動かすことができたなら、世界を動かすことができるということだ。

君の言葉は、国境を越えて、人種を越えて、時を越えて、文化を越えて、

それを必要とするひとに届くか。

世界に届く言葉をもて。その言葉で責任をもて。

君たちが世界だ。世界をつくるのは君たちの言葉だ。 Change The World With Your Words.

 言葉が世界を作っている
 古舘伊知郎氏が、「言葉こそ煩悩だ」という話をしていたのを聞いたんです。とても本質的な話だと思いました。
 ヒトは言葉を沢山学んだからこそ、決めつけや思い込みなど、想念が膨らんで雁字搦めになっています。

「言語が変われば周りの世界も違って見える」ということが証明された。同じ人でも、そのときに使っている言語によって物事の捉え方が変わってくるのだという。

使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果

 どんな言葉を使っているか。それが、人生を決めます
 悩みなど、生きづらさを生んでいるのは、その人が持つ言葉です。だからこそ人類は、書物などの方法を使って色々な言葉を知り、様々な視点を学んできました。

身の周りにある本、バッグ、辞書、制服も、その言葉を幼い頃に私たちが知ったときに初めて、「そこにある」ことになったわけです。それ以前は、「なかった」のです。「ものが先にあるのではなく、まず言葉があってそれからものが存在する」ようになります。ですから、本を読んで言葉を覚えれば覚えるほど、存在するものは増え、世界はどんどんと広がっていくのです。

言葉を知らなければ世界は存在しない

 そうやって世界を広げてきたのが科学ですが、逆に狭めて悟るのが、東洋哲学です。
 我々は、知らなくていい事まで知ってしまった。
 幾多数多の情報を吸収する事で、知的好奇心を満たしますが、他者と比較するなどの情報で不幸を感じます。
 言葉の取捨選択や、使用方法に注意せねばなりません。
 刃物は料理に使えば人々を笑わせられる。暴力に使えば、人々を傷付けられる。
 言葉も同様に、使い方が大事です。

「言葉」というのはとてつもなく大きな力を持つものだ。

だから私達は自分の「言葉」も相手の「言葉」も大切に扱い、日々を過ごしていくことがよりよい社会を作るのではないか。

言葉が世界を作る|Yuki @yuki33831127

 「類は友を呼ぶ」という諺は正しいと思います。
 どういう言葉を使って生きているかで人格が変わり、周りの人間も変わり、未来をも変えるのです。
 言葉こそ世界。より良い言葉を心掛けていたいです。

世の中面白いもので、悪い言葉を使っていると
悪い言葉を使う人が集まってきます。

否定的な言葉ばかり使っていると
いつも否定的な言葉ばかり使う人が集まってくる。

コレ、マジです。
自分が使っている言葉に合わせて周りの環境も変わっていくんです。
なんか心当たりありませんか??

自分の言葉が自分を作る

 「マインドセット」なんて言葉が自己啓発界隈で使われたりします。
 偉人の思考を学び、同じような言動を選択する事で、成功者に近付こうというものです。
 これは、「引き寄せの法則」とも近しい考え方。

言葉が思考と行動に影響を与える「プライミング効果」

一時、大ブームとなった「引き寄せの法則」。自分が望むものに対してポジティブな言葉で願い続けることにより、その願いが現実となるという、成功論のひとつです。

これは、脳科学や認知科学、心理学でいう「プライミング効果」で説明ができます。言葉が行動に影響を与える効果のことです。

「引き寄せの法則」では、実際には「言葉」が現実を引き寄せてくれるわけではなく、言葉が私たちの“記憶”に影響を与えており、その記憶が私たちの認識に影響を与えることで、自分の都合に「引き寄せて」現実を見られるようになると考えられるのです。

「口ぐせが現実を変える」が科学的に正しい訳

 『思考→行動→現実』である。
 それは、言葉が人生を築いているという事です。
 思い返せば、小生の人生はそうでした。小学校低学年の時からブログを書いていたのです。その頃を含めれば、もう15年以上もブロガーをやってます。
 小生に「書くのを辞めろ」と言う事は、「死ね」と言っているのと同じです。それくらい、執筆と共にある人生でした。
 今日死んでもいいように生きる。それが、ブログのテーマです。
 これからも、面白い人生を歩む為に、刺激を求めて行動していきます。
 振り返ると波乱万丈な日々でしたが、どれも現在の幸福に繋がっています。だからこそ、言いたい。
 喜びをくれた人へ、ありがとう。
 苦しみをくれた人へ、ありがとう。
 妻と息子へ、いつもありがとう。愛してるよ。
 今日死んでもいいくらい、幸せです。

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