私が本を綺麗に読む理由は、本はその時点で完璧だから。
私は教科書に一切書き込みをしない。
だから、同級生に終わったらメルカリで売りたいのかと聞かれた。私は合計1週間程度を除いてメルカリを使っていない。それは単にユーザインタフェースが綺麗だと思えないからだ。本を売ることはあるし、そういったときにばバリューブックスというサイトを使っている。値段ではなく、たとえお金にならなくてもちゃんと有効活用されることを売りにしているからだ。しかも、メルカリのようにその都度発送するのは面倒だし、しかもメルカリで得られた金銭を現金化するのはほんとうに面倒だ。現金が入るなら、それは口座に直接振り込んでほしい。バリューブックスならそれができる。
考えてみてほしい。一部の日本のサイト、たとえばYahoo Japanの運営するいろいろなサイトや、メルカリや、楽天市場は、ただただユーザインタフェースがごちゃごちゃしている。日本の街並みだってそうだ。看板がそれぞれの色を街に加えていて、それが活気があるともいえるし、カオスだともいえる。私は後者の考え方をする。「日本の街並みだって素敵だ」とはもちろん思う。ただ、好みとして私はヨーロッパの整然とした街並みを好む。留学していたラクイラの橋Ponte Belvedereから、夕暮れ時に見るラクイラ市内の一面茶色の屋根がオレンジ色に染まっているあの景色は、一生忘れられない。あれは良くも悪くも、日本では見られない。
私は本を読むとき、下線や傍線を引くことはない。
本によってはすでにデザインとして下線や傍線が引いてあるものもあるが、それはそれで本として既に完成している。私が既に完成している本に加える手などない。どうしても重要だと思ったら、そこは付箋などに書く、あるいは付箋を貼る。ただそれもほとんどしない。なぜなら、こころに響く場所というのはいくらでも変わるからだ。こころに響くからといって付箋を貼るのではなく、あくまでたとえば知り合いが寄稿したところだったり、あしたの試験に出ると言われたところだったり、そういったごく一部の必要性があるときだけだ。
考えてみてほしい。もし、目の前に本物の「モナリザ」があって、そこに「私はもっと明るいほうがいいから」と勝手に白い絵の具を塗るひとがいるだろうか? それは「モナリザ」への冒涜以外のなにものでもないだろう。
私は本を読むとき、ページを折ることはない。
そのために人間はしおりというものを発明している。ただ崇高で誇り高き本において、それを人間の都合で汚すことなど許されない。付箋というものだって人間が(偶然のうちに)発明した。そうすれば本への損傷は最小限にできる。ページが折られた本は、本としての価値を失う。なぜなら、たとえば私がページを折るのは私のためであって、他人のためではない。だから、他人にこの本が渡ったときに、他人にとってその折り目は迷惑以外のなにものでもない。
考えてみてほしい。目の前に1000年前の遺跡から出土した剣があったとして、それを「持ち運びに不便だから折りました」なんて言うひとはいない。それはあくまでも持ち運ぶひとのための利益だけだからだ。
私は本を買うとき、学生なので中古本を買うことがあるが、1つでも書き込みがあれば絶対に店にクレームを入れる。
Amazonで本を買うことが多いが、「非常に良い」という状態のものしか買わない。その結果値段がたいして違わなければ、もちろん新品を買う。書き込みを見逃すのは、人間のことだから仕方ない。ただ、その際には誠意ある対応をしてくれないと、というのは私にとって「まず書き込みがあったんですよ」というのを知ってもらわないと、その店は将来ほかのこのような厳しい意見を持つひとにも不快な思いをさせる。なら新品を買えばいいと怒られそうだが、Amazonの場合新品が1000円して「非常に良い」状態の中古が200円ということは割とよくある。
考えてみてほしい。あなたが一生懸命描いた絵に、誰かの落書きがあったらどう思うだろう。「これも素敵ですね」とは誰も思えないわけだと思う。
これらのことに共通するのは、本は出版された時点で既に完成された作品だということだ。
読者が好きなように解釈したり、思いを巡らせたり、批判したりする自由は当然ある。ただ、読者の好きなように作品が改変され使われるというのは、作品としての価値を汚すことになる。
そして、本は読み終わってすぐごみ箱に捨てられるものではない。お友達に「貸して」と言われることだってあるだろうし、中古市場に流すことだってあるだろうし、誰かにあげることだってあるかもしれないし、自分がその本をたいせつなひとにあげることだってあるかもしれない。逆に、誰かからもらったり買ったり譲られたりすることだってある。そういったときに、経年劣化は仕方ないとしても、私はなるべくそのままの状態で読むことを大事にしている。
そして、もうひとつ気にしていることは、本の帯は買ってすぐ捨てるということだ。
本は経年劣化する。私が持っている辞書のカバーは、帯をしていたせいで、その部分だけ色が残っていてとても醜い。
本の帯は、宣伝以外の理由で書かれていない。そのため、新品の本を買った時点で、作者に印税は入るし、本屋さんにも収入が入るわけだから、帯、つまり販促材料としての役目は終わっている。
だからさっさと捨てて、本が日焼けするときには均一に焼けるように、そしてなるべく焼けないように日を当てないというのは当然のことだが、そうやって綺麗な状態で維持していく。そうすることで、次に読むひともきっとよ転んでくれる。
私は本を捨てない。なぜなら、絶対に誰かはその本を必要とするからだ。だからまず本を捨てるときには、それもほとんどないのだが、お友達に聞く。そうして、無料で譲ることができないなら、バリューブックスに送って買い取ってもらう。
私は本を床に置かない。虫が食べたり、ほこりが入ったり、なにかといいことがない。本が入るだけの本棚なり収納スペースなりはどうにかして用意しておきたい。
私の家には1000冊程度の本がある。ちゃんと数えていないのでわからないが、置き方を工夫すれば案外狭いスペースでも収まるものだ。
私は基本的に本をひとに貸さない。意図していてもしなくても、汚されることが多いし、その場合に弁償を頼めるものばかりではない。絶版になった本などはこの世にたくさんあるので、弁償したくてもできないものは多い。
ただ、書き込みの中で唯一許せるというか好きなのは、文字を書くことだ。
それは、単に書いてあることの要約や感想ではない。自分がなにを感じたかをしっかり書いてあるような書き込みは、その質に関わらず好きだ。たとえば、小説で「この描写いいな」といった書き込みは邪魔でしかないが、「私はこの描写を見て私の少年時代を思い出した。あのころはこの主人公のように受験戦争に耐えていたけど、恋愛が楽しくて頑張れた。よく頑張ったなあ」といったコメントがあると、前にこの本を読んでいたひとのことが想像できる。あるいは、評論で「この著者めっちゃいいこと言うてるやん」というコメントは邪魔でしかないが、「私はそうは思わない。若いころの時間は大事だとここには書いてあるが、お金のほうが大事だろう。私は大学に行きたかったが、金銭的事情で諦めて、いまでも行きたいがまだお金がない。時給1000円のアルバイトをしていては、100万円の学費なんて夢のまた夢だ」といったコメントだ。それは作品に新たな価値を加えることになる。ただ、こんな長文のコメントを本に書き込んで残すほうがまれだし、そういったことはほとんど起きないし、薄っぺらいと私が判断するようなものであればそれは価値がないから、結局このようなものは期待していない。
あと、もうひとつ「良いな」と思うのは、こんなやつだ。「1995年 城崎温泉旅行時に現地の書店で 海鮮料理が美味しかった」などの、本をいつどんな状況で買ったかのコメントはとても面白いと思う。
あと、面白いのは本に当時のメモがそのまま残っていることだ。買い物メモが入っていたり、前の持ち主なりに本の内容を理解しようとした痕跡が別の紙に書かれたメモが挟まっていることで残っていたり、そういったのは好きだ。本がアナログであるから、そして使い古されるからこそできることだ。
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