昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』第五章。 いけすかない存在であるヴィラマキールティ(維摩)が、「他者に関わる態度」について説く。それは仏教のひとつの到達点でもある。 “物事を二項対立で捉えている君の分別心、それこそが問題なのだ、といった問いの立て方をするのです。”
昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』第二章。 仏教の最古の教えである『スッタニパータ』というお経について。仏教って最初から教条主義(ひとつの教えや信条に傾倒すること)の危険性を説いていたんですね。これは宗教としてはすごいことな気がする。
昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』第六章。 阿弥陀とは、「どこへでも届く限りない光」と「いつまでも途切れることのない生命の働き」を表し、それぞれ「空間的無限」と「時間的無限」である。 阿弥陀仏信仰は「たとえ死んでも、また同じ場所で会える」という考え方をする。 読了。
昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』第三章。 『涅槃経』について。 「苦から離れる」というのは宗教的ですが、仏教では「楽からも苦からも離れる」と考えるそうです。ここに仏教の修行的側面がよく表れています。現代の「マインドフルネス」の起源が仏教の「四念処」だというのも面白い。
昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』第四章。 『ミリンダ王の問い』は、ギリシャ人のミリンダ王が「仏教ってこういうとこおかしくない?」と、仏教の痛いところをひたすら突いてくるお経。 仏教僧ナーガセーナの、「喉が渇いてから井戸を掘る人はいませんよ」という言葉が印象的。
昨日の読書記録。 釈徹宗『お経で読む仏教』読み始め。 「NHK学びのきほん」シリーズが好きすぎるので読んでみます。第一章は仏教の流れについて。これだけ広範に広がった仏教が、発祥の地インドでは途絶えたことが不思議でならないです。この辺りはもう少し掘り下げて知りたいところ。