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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP ht…

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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/    Facebook https://www.facebook.com/kazenotopos

マガジン

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos

    神秘学的な内容を写真と言葉で、「遊戯」していくシリーズ。

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos

    本を中心としたメディアを神秘学的な視点で読みながら「遊戯」していくシリーズ。

最近の記事

ほんとうが閉じこめられるとき

☆photopos-3528  2024.5.6 ものの ほんとうは 名づけることができない ものを 名に 閉じこめてしまうとき ものは 死体としてしか あらわれなくなる こころの ほんとうは 言葉にすることができない こころを 言葉に 閉じこめてしまうとき こころは 言葉としてしか あらわせなくなる ひとの ほんとうは みることができない ひとを その姿に 閉じこめてしまうとき ひとは 仮面としてしか 存在できなくなる *岡山県新見市哲西町・鯉が窪湿原にて

    • 井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』

      ☆mediopos3458  2024.5.6 井筒俊彦に『老子』の翻訳があることを知り 小躍りしたことを思いだす なんといっても『老子』は ぼくにとっては半世紀前からの 変わらぬバイブルのようなもので それを井筒俊彦ヴァージョンとして読めるのだから 翻訳といっても英語への翻訳である それが英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』 として出版されたのは二〇一七年のこと 井筒俊彦の英語への翻訳が完成したのは 一九七七年のイラン革命が起こる前のことだそうだが それが生前に

      • おなじことばでも・・・

        ☆photopos-3527  2024.5.5 おなじ ことばでも ちがう顔があり ちがう ことばでも おなじ顔があるように どれだけ ことばを使っても どうしても伝わらないことがあり ほんのわずかなことばで ときには ことばさえ使わなくても 伝わることがある おなじ ひとにも ちがう顔があり ちがう ひとにも おなじ顔がある どれだけ いっしょにいても どうしてもわかりあえない心があり ほんのすこしで ときには 会うことさえなくても わかりあえる心がある

        • 今野真二『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』

          ☆mediopos3457  2024.5.5 日本語は「正書法(orthography)がないことば」である 「正書法」のあることばとは 正しい書き方=正しい文字化がたった一つだけあることばで 「文字はその音声言語を写した二次的なもの、 というみかたが一般的」な欧米ののことばには 「語をどのように文字化するか、という書記論・表記論」は 基本的に欧米の言語学には存在していない 日本語は「つねに文字化に関しての選択肢がある」 つまり「正書法がないことば」なのである

        ほんとうが閉じこめられるとき

        • 井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』

        • おなじことばでも・・・

        • 今野真二『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』

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        • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos
          1,221本
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        記事

          手で考える

          ☆photopos-3526  2024.5.4 考えるために 手をつかう 手で考え かたちにする じぶんを つくるのも 手である じぶんを かたちにする知恵は 手で うけとめなければならない 手のしらないことは ほんとうに考えることができない かたちにすることができない それなのに 手のしらない 考えやかたちが 知ったかぶりで むずかしそうな けれどからっぽな ことばにされていたりする 学ぶための ことばではなく 教えるための うそのことばのように *愛

          手で考える

          阿部謹也『「教養」とは何か』/ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』/シュタイナー『人間生活の運命を形成するカルマ』

          ☆mediopos3456  2024.5.4 教養とは何か Wikipediaによれば 「個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと」とある そして「一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる 一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、 古典文学や芸術などの文化に対する幅広い造詣が、 品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に 結びついている状態を指す」とされ 「伝統的に、西欧の高等教育で扱われてきている リベラル・アーツに相当するものとしてもとらえ

          阿部謹也『「教養」とは何か』/ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』/シュタイナー『人間生活の運命を形成するカルマ』

          意味・言葉・善悪の外で

          ☆photopos-3525  2024.5.3 決められた 意味に 閉じ込められそうなときは 意味の外に出る 決められた意味は AIで足りるから 意味の外で 無意味に遊ぶ 決められた 言葉に 息苦しくなったときは 言葉の外に出る 決められた言葉は 辞書で足りるから 言葉の外で 沈黙に遊ぶ 決められた 善悪に 押しつぶされそうなときは 善悪の外に出る 決められた 善悪は 道徳で足りるから 道徳の外で 外道に遊ぶ *愛媛県総合運動公園にて

          意味・言葉・善悪の外で

          丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」(群像)/ロラン・バルト『表徴の帝国』/河合隼雄『中空構造日本の深層』

          ☆mediopos3455  2024.5.3 丸山俊一の連載「ハザマの思考」(群像) 第8回目は「表象と実際のハザマで」 主にロラン・バルト『表徴の帝国』と 河合隼雄『中空構造日本の深層』を主なガイドとしながら 加藤周一『雑種文化』小林秀雄『学生との対話』なども あわせてとりあげられているが ここではロラン・バルトと河合隼雄の視点を中心に・・・ 丸山氏は「日本」をテーマとした議論の場で 「表象性」と「実際性」という言葉を口にする 日本は国際関係においてはフランスのよ

          丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」(群像)/ロラン・バルト『表徴の帝国』/河合隼雄『中空構造日本の深層』

          なぜ信じているのか

          ☆photopos-3524  2024.5.2 だれもが なにかを 信じて生きている なにも信じないというひとでも 信じないと信じているように けれど なぜ信じているのか そう問われると わからなくなってしまうだろう 神を信じる というひとも 神について問われると ほんとうのところ 神がわからなくなるように おそらくひとは ヒヨコが最初に見たものを 母親だと信じてついていくように 最初に あるいはあるときに 信じざるをえなくなったものを 強く信じて生きていくよ

          なぜ信じているのか

          現代詩手帖 2024年5月号 特集 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く

          ☆mediopos3454  2024.5.2 『現代詩手帖 2024年5月号』の特集は 「パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」 現在ガザは イスラエルによる大量虐殺下にある この特集では パレスチナという経験を共有する 来歴も世代も異なった12名の詩人の声が 詩とプロフィールそして解題のかたちで わたしたちに届けられている 最初に紹介されているのは ガザを代表する詩人のひとり 若い作家たちの精神的支柱 「We are not numbers(わたしたちは数では

          現代詩手帖 2024年5月号 特集 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く

          せかいの外へ わたしの外へ

          ☆photopos-3523  2024.5.1 外へとひらかれる 不安のために とじてしまうとき 見えないでいるものは もっと見えなくなる せかいの外へ わたしの外へ そのときなにが 見えてくるだろう わからないでいる 焦りのために わかりやすい答えだけを 求めてしまうとき 考えられないでいることは もっと考えられなくなる わからないせかいへ わからないわたしへ そこでなにを 問うことができるだろう 未知へとむかう おそれのために 過去へと 回帰してしまうと

          せかいの外へ わたしの外へ

          芸術新潮2024年5月号 【特集】謎解き デ・キリコ/長尾天『ジョルジョ・デ・キリコ 神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』

          ☆mediopos3453  2024.5.1 『芸術新潮2024年5月号』の特集は 「謎解き デ・キリコ」 日本で10年ぶりに開催される「デ・キリコ展」 (4月27日〜8月29日 東京都美術館)に あわせて組まれている特集である 「デ・キリコ」については mediopos-2315(2021.3.19)で 長尾天『ジョルジョ・デ・キリコ/ 神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』を とりあげたことがある それをふまえながら 主に「デ・キリコをめぐる10の謎」から 「

          芸術新潮2024年5月号 【特集】謎解き デ・キリコ/長尾天『ジョルジョ・デ・キリコ 神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』

          じぶんという謎を味わうために

          ☆photopos-3522  2024.4.30 たとえ どんな大きな声で 求められても どんな強い手で たしなめられても 白にも 黒にも 灰色にも 染まることなく 冷たすぎも 熱すぎもしないように ゆっくりと たしかな熱を加えながら ひとから 認められるためにでも あらかじめ決められた結果を 求めるためにでもなく じぶんという謎を しずかな足どりで 味わってゆけますように *愛媛県総合運動公園にて

          じぶんという謎を味わうために

          堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』

          ☆mediopos3452  2024.4.30 堀江敏幸に「バン・マリーへの手紙」という 連作のエッセイがある 二〇年前の二〇〇四年四月に「図書」に掲載されはじめ 連載となったものが二〇〇七年に刊行されている 「バン・マリー」は人名ではなく フランス語で「湯煎(ユセン)」のこと 「鍋で湯を沸かし、中に小さな鍋を浮かべて ゆるやかな温度で調理したり、 ソースやポタージュを保温したりすること」である 「バン・マリー」の語源は一節によれば このユセンが考案された一四世紀ご

          堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』

          わたしは記憶である

          ☆photopos-3521  2024.4.29 わたしは 記憶である 見聞きし 体験したこと すべてが わたしとなっている わたしの記憶は このわたしを超えている あるいは わたしとなるまえの わたしの記憶が 重ね合わされながら わたしとなっている 記憶は 決して失われないが 忘れることはできる 忘れなければ 生きられないことがあり 思い出せないために 生きづらくなることもある 死は 記憶を妨げない 生が ほんとうの記憶を 妨げはしないように わたしは

          わたしは記憶である

          三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』

          ☆mediopos3451  2024.4.29 三村尚央『記憶と人文学』第一章 「写真と記憶、記憶の写真」から すでに本書は吉田健一『時間』とあわせ mediopos2397(2021.6.9)でとりあげているが 今回は写真との関係における「記憶」について ベルクソンをガイドに・・・ 「写真は一体何を写し出しているのか?」 写真が誕生して以来 繰り返されてきている問いである 一葉の写真には 「被写体」「撮影者」「鑑賞者」が 多様な関係で結ばれている たとえば過去

          三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』