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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP ht…

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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/    Facebook https://www.facebook.com/kazenotopos

マガジン

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos

    神秘学的な内容を写真と言葉で、「遊戯」していくシリーズ。

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos

    本を中心としたメディアを神秘学的な視点で読みながら「遊戯」していくシリーズ。

  • photopos/mediopos ブックレット版

    photopos/medioposをそれぞれ時系列でブックレット化(25項目で「一集」)していきます。

最近の記事

争いが生まれたときは

☆photopos-3665(2024.9.22) こころに 争いが生まれれば からだにも 争いは生まれるだろう からだに 争いが生まれれば こころにも 争いは生まれるだろう ひととひとに 争いが生まれれば 社会にも 争いは生まれるだろう 社会に 争いが生まれれば ひととひとにも 争いは生まれるだろう 社会に 争いが生まれれば 世界にも 争いは生まれるだろう 世界に 争いが生まれれば 社会にも 争いは生まれるだろう 争いを なくすために わたしに できること

    • 村澤和多里・村澤真保呂『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』/フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』

      ☆mediopos3595(2024.9.22) 澤和多里・村澤真保呂 『異界の歩き方』の概略についての mediopos3585(2024.9.12)に続き mediopos3593(2024.9.20)では R・D・レインの「反精神医学」についてとりあげたが 今回はそれに続きフェリックス・ガタリについて 「第8章 精神、文化、自然」の概略をまとめておきたい ガタリは 「反精神医学とディープ・エコロジー」が盛んだったころ 「制度論的精神療法」という治療実践が試みられてい

      • ひとになるために

        ☆photopos-3664(2024.9.21) ひとであるとは どういうことだろう ひとであることは むずかしい わたしは ただわたしであるだけで ひとになることはできない みずからを 他者のように見 他者を みずからのように見ることで ひとへの途を歩んでゆける けれどそれは 他者とおなじように 感じ考えることではない ときにそれは ひとがひとでないものになる そんな闇へと 導くものとなるから わたしは 迷路のような 困難な途を歩み 自他を超えた 自由にお

        • 鷲田清一『〈ひと〉の現象学』〜「9 ヒューマン 「人間的」であるということ」

          ☆mediopos3594(2024.9.21) 数年前に文庫化されている 鷲田清一『〈ひと〉の現象学』の 第9章「ヒューマン」をガイドに 「人間的であること」 「普通であること」について 「人間主義」とも訳される「ヒューマニズム」は 「人間」というものに、他の何とも替えることのできない 固有の「尊厳」を見出す思想」だが 「人間的」という概念は 「アプリオリに存立しているのではなく、 アプリオリなものとして構成されたものである」ように 「概念として奇妙な性格をもっている

        争いが生まれたときは

        • 村澤和多里・村澤真保呂『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』/フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』

        • ひとになるために

        • 鷲田清一『〈ひと〉の現象学』〜「9 ヒューマン 「人間的」であるということ」

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        • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos
          1,358本
        • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos
          1,358本
        • photopos/mediopos ブックレット版
          10本

        記事

          このわたしの生という場所で

          ☆photopos-3663(2024.9.20) 過去に遡っても ほんとうの わたしはいない 子どものころに 戻ることができたとしても 子どもは 子どもでしかないように この生を 去ることで 永遠が得られることもない 死と再生の 秘儀の物語を 生きようとしても この生が アムリタで 充ちることなどないように わたしは このわたしの 生という場所で いまを生きねばならない そこにすべてはあり わたしという現象は ときに地のように立ち ときに水のように流れ ときに火

          このわたしの生という場所で

          村澤和多里・村澤真保呂『中井久夫との対話』『異界の歩き方』/R.D.レイン『引き裂かれた自己』

          ☆mediopos3593(2024.9.20) 澤和多里・村澤真保呂 『異界の歩き方』をとりあげた mediopos3585(2024.9.12)では 精神科医R・D・レインについて ふれることができなかったので 同著者による『中井久夫との対話』からの紹介も含めながら その「反精神医学」についてとりあげておくことにしたい 「反精神医学」は 「一言でいえば、伝統的正統的主流的精神医学の 狂気観に対する根本的な異議申し立て」(笠原嘉)であり 一九五〇年前後に流行した 電

          村澤和多里・村澤真保呂『中井久夫との対話』『異界の歩き方』/R.D.レイン『引き裂かれた自己』

          おもしろいことをしよう

          ☆photopos-3662(2024.9.19) おもしろいことをしよう そうしていきていければ なんとうれしいことか きめられたとおりに かんがえるだけの わたしはつまらない おしえられたことを おしえられたようにおぼえる わたしはつまらない みとめられるために みとめられることをする わたしはつまらない わたしのなかにいる わたしでないわたしたちのことを わすれたままだとつまらない つまらないことはやめよう わたしという ひらかれたうちゅうで おもしろい

          おもしろいことをしよう

          田中泯「時代と添い寝しないカラダ」(現代思想 2013年6月号 特集「フェリックス・ガタリ」)/フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』

          ☆mediopos3592(2024.9.19) これまではドゥルーズ=ガタリの ドゥルーズのほうに関心をもってきたが mediopos3585(2024.9.12)でとりあげた 『異界の歩き方』を読んで以来 精神分析家のガタリに注目するようになった そのなかで偶然のように 現代思想 2013年6月号の 特集「フェリックス・ガタリ」に掲載されている ガタリについての田中泯へのインタビューを見つけた (2013年4月19日、中野風月堂で収録) すでに40年ほどまえのこと

          田中泯「時代と添い寝しないカラダ」(現代思想 2013年6月号 特集「フェリックス・ガタリ」)/フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』

          美と醜

          ☆photopos-3661(2024.9.18) 美は醜を生む 醜なきところに 美を求めるとき 美はその均衡を失う 美と醜 ともに相生じる源より 感官を育て 変容させられますように 善は悪を生む 悪なきところに 善を求めるとき 善はその均衡を失う 善と悪 ともに相生じる源より 霊性を育て 変容させられますように 賢は愚を生む 愚なきところに 賢を求めるとき 賢はその均衡を失う 賢と愚 ともに相生じる源より 智慧を育て 変容させられますように *愛媛県久万

          美と醜

          バーツラフ・シュミル『SIZE(サイズ) 世界の真実は「大きさ」でわかる』/『老子道徳経』/本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』

          ☆mediopos3591(2024.9.18) 日常生活において サイズは重要な意味をもっている 服のサイズや道具や機械のサイズなど 意識的に選択されているサイズもあれば 実際に使ってみて あるいはその場所に行ってはじめて そのサイズが半ば無意識に予想していたものと 異なっていることに気づくサイズもある 「好むと好まざるとにかかわらず、 私たちは細かくサイズが定められた空間を動きまわっている」 バーツラフ・シュミル 『SIZE(サイズ) 世界の真実は「大きさ」でわか

          バーツラフ・シュミル『SIZE(サイズ) 世界の真実は「大きさ」でわかる』/『老子道徳経』/本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』

          くりかえしはじめてかんがえる

          ☆photopos-3660(2024.9.17) なんどでも なんどでも かんがえる おなじことのようでも おなじことは けっしてないから くりかえし かんがえる なんどでも なんどでも いまここで くりかえし はじめて かんがえる かんがえることは いつもあたらしい かんがえは いつもうまれたばかり かんがえて かんがえて かんがえることで そこに うまれてくるものと ともにいきる *愛媛県久万高原町・古岩屋にて

          くりかえしはじめてかんがえる

          武田砂鉄「誰もわかってくれない—なぜ書くのか 第8回ハウ・ツー」/保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか 連載小説74」 (群像2024年10月号)

          ☆mediopos3590(2024.9.17) 「群像」で連載されている 武田砂鉄「誰もわかってくれない」 保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか」 その二〇二四年一〇月号の記事をガイドに (二つの記事は直接関係してはいないが) 「書く」ことと「考える」こと そしてその背景にたしかにあるにもかかわらず 見えなくさせられている いってみれば半ば無意識なまでに働いている 「自動化」あるいは「洗脳」ともいえる機構について まず武田砂鉄「誰もわかってくれない——なぜ書くの

          武田砂鉄「誰もわかってくれない—なぜ書くのか 第8回ハウ・ツー」/保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか 連載小説74」 (群像2024年10月号)

          名と知

          ☆photopos-3659(2024.9.16) 名を守り 伝えることで 継がれるものがあり 名を捨て 新たな名のもとで つくられるものがあり 名なきをもって 名の縛りを超え 歩むことのできる自由がある 知を守り 伝えることで 継がれる道があり 知を捨て 新たな知のもとで つくられる道があり 無知をもって 知の縛りを超え 歩むことのできる未知がある *愛媛県久万高原町・古岩屋にて

          名と知

          筒井功『縄文語への道 古代地名をたどって』

          ☆mediopos3589(2024.9.16) 筒井功『縄文語への道』は 縄文時代に日本列島で使われていた言葉を 地名から探り当てる試みである いうまでもなく当時は文字はなかったものの 古代から伝わっていたと考えられる地名には かつて使われていた言葉がのこされている その視点から 著者が間違いなく縄文語だとしてとりあげているのは 「アオ(青)、アワ(淡)、クシ(串、櫛)、 ミ(数詞の三)、ミミ(耳)」の五語 そこから推測される言葉をふくめ 本書では数十の縄文単語が再現

          筒井功『縄文語への道 古代地名をたどって』

          変わらないわたしはいないから

          ☆photopos-3658(2024.9.15) そのかたちは 見えているだろうか 変わらないかたちはない かたちは うたかたのように 変わりつづけながら 生起するなかにある 過去のかたちに とらわれず かたちのあらわれを 見ることができますように このわたしは 存在しているだろうか 変わらないわたしはいない わたしは 時の舟に乗り 旅しつづけながら 生死を繰り返すなかにいる 過去のわたしに とらわれず わたしのあらわれを 遊戯できますように *愛媛県久万

          変わらないわたしはいないから

          岡崎乾二郎「形態の黴」(『而今而後』)/植草甚一『植草甚一スクラップブック14』

          ☆mediopos3588(2024.9.15) ここで引用した岡崎乾二郎のテキストは 「パウル・クレーの芸術」展 (一九九三年四〜七月)を契機に執筆され 『GA JAPAN』第5号に掲載されたものからで 岡崎乾二郎『而今而後』に収められている テキストは ほとんどセロニアス・モンクの演奏と ブルー・ノートにおける音程のズレ・ゆらぎを 「ある形態が他の形態に変化するかもしれない 変化の徴候(=形態の黴)」としてとらえた 音楽論となっているが それが同時にパウル・クレー論と

          岡崎乾二郎「形態の黴」(『而今而後』)/植草甚一『植草甚一スクラップブック14』