釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」 コラボ連載 釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?」(群像 2024年1月号)
☆mediopos3311 2023.12.11
「現代ビジネス」のWebページで2021年5月22日から
釈徹宗と若松英輔の往復書簡が連載されていたが
その続きが「群像 2024年1月号」から
往復書簡「宗教の本質とは?」として再開される
これまでのテーマは
「信じる」「発声する」「歩く」
「読む」「分かち合う」といったテーマだったが
今回の第1回目のテーマは「名づける」である
創世記(2:19)では
神が獣や鳥をつくり
人のところに持ってきて
人がそれを名づけるとある
興味深いことに
名づけるのは神ではなく人なのだ
しかし人は
「神の名をみだりに呼んではならない」
神の名は人が名づけたのではないのである
また『陰陽師』(夢枕獏)では
命名は呪術的行為であり
ジブリ映画『千と千尋の神隠し』で
千尋が湯婆婆に名を奪われ
「千」と名づけられほんとうの名を忘れてしまう
呪術的にいえば
ほんとうの「名」を知られると
それを使って操られてしまうから
その名は隠されて別の名が用いられたりもする
また近代以前の日本矢多くの民族では
(現代でも襲名・戒名・法名などのような
改名文化は残っているが)
成人して変わり
結婚して変わり
一人前の職人になって変わり
引退して変わり
遁世して変わるように
名前は「ころころと変わっていた」
それに対して現代では
管理(「徴税」や「徴兵」など)のためもあり
法的な名前はほとんどの場合一生変えられなくなった
現代は変わらない名によって固定された
「「個人」という幻想に汲々としている社会」であり
養老孟司「自己が同一だと思っているところが
脳化社会の悪いところだ」といっているように
「改名の文化は意外に大きな力となり得る」かもしれない
「名前が変わることで、生きる方向が定まり、
新たな自分が誕生するような事態へとつなが」るからである
現代は生まれたに親もしくはそれに類する人に
名前をつけられるとそれをじぶんで変えることは難しくなる
ぼくも親の離婚騒動でいちど名字を変えていて
そのとき名前を全部新しくしたいと思ったのだけれど
そのとき選べる名字は限られていて
しかも名前はよほどの理由がないかぎり
変えることができないことを知って残念に思ったことがある
それもあって1990年代のはじめころだが
ネットを始めたときハンドルネームとして
自分で名づけた「KAZE」を使うようになり
少しだけ自由になれた気がしたことを覚えている
人は獣や鳥や自分の子どもだけではなく
じぶんの名前もつけられるようであればと思う
しかも変わっていくじぶんを表現できるように
その名もまた変えていく自由がほしい
「新たな自分」をじぶんで生み出すために
とはいえ宗教者でないじぶんは
類型的な洗礼名などは遠慮したいところである
戒名などもとくに要らない
できれば死後の名はnobodyか
そうでなければ死の直前にでも自分で名づけたい
■釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」
コラボ連載 釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?」
(群像 2024年1月号)
■田中克彦『名前と人間』(岩波新書 1996/11)
■村岡晋一『名前の哲学』(講談社選書メチエ 2020.1)
(釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」〜【名づける】より)
「これまで(注:若松英輔と)「信じる」「発声する」「歩く」「読む」「分かち合う」などをテーマにネット上で語り合ってきた。開始からすでに二年以上経過しているが、まだまだ話したいこと聞きたいことが山積している。このたび、本誌で続きを書かせてもらえることになった。(・・・)
今回は「名づける」というテーマのポールを、私の方から投げてみる。」
(釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」〜「名前の宗教性」より)
「ラテン語の「nomen est omen」(名は予兆なり)に表されてきたように、宗教の領域において名前は特有の聖性を内包してきました。
創世記2:19には、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」(新共同訳)とあります。神が創って、人が名づける、といった役割が面白いです。
名前はその存在の全体を一気に表す象徴です。その存在の歴史性から、内実から、働きにいたるまで、すべてを一瞬で表現するのが名前です。だから時には、名前に聖性が生じます。その名前が、救いや裁きや信仰のシンボルとなったりするからです。宗教の領域において、「名前」はとても大きな機能をもっています。
その意味において、十戒による「神の名をみだりに呼んではならない」の教えは実に興味深く、また人間の宗教心の本質にせまる戒律だと思います。」
(釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」〜「〝縛り〟を生み出す」より)
「また、夢枕獏さんの『陰陽師』には、安倍晴明が「もっとも身近で単純な呪は命名だ」と語る場面があります。名前を付けるのは呪術的行為だというわけです。古来、名前とはある種の「縛り」なのです。無規定な存在に縛りを与える記号です。
(・・・)
民話などに、名前を知られることを避ける、名前を呼ばれて返事しちゃうと負ける、みたいなモチーフがありますよね。ジブリ映画『千と千尋の神隠し』にも、名前を付け替えられてしまう場面(湯婆婆に千尋という名前を奪われ、千と名づけられる)があったでしょう。名前を付けられると呪術にかかってしまうんですね。
イヌイットの信仰には、「名前それ自体が霊魂」というものがあるそうです。」
(釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」〜「名前が変わる」より)
「世界には、成人すれば名前が変わるという文化をもっているところもあります。日本でもかつては幼名を付けて、長ずれば名前が変わる習慣も見られました。(・・・)
今日でも、襲名の伝統がある領域も残っています。伝統芸能などはその代表ですね。あるいは、長く続く商店の店主なども何代目〇〇〇などと名前を継いでいるところがあります。(・・・)襲名されていく名前は、もはや多くの人格の集合体となります。私の友人の桂春之輔は、四代目桂春團治を襲名しましたが、「春團治」には初代から三代目までの人生と人格がこめられています。
名前が変わると、新しい社会的ポジションについたり、義務と権利が発生したりするわけです。名前が変わることで、その存在そのものが新しくなると考えられてきたのです。
そんなわけで、改名というのは軽視できない力をもっています。それまでの古い自己が死んで、新しい自己へと再生する通過儀礼でもあります。改名は死と再生の機能を果たします。
このように、近代社会が発達する以前の日本は(その他の多くの民族でもそうですが)、けっこう名前がころころと変わっていたようです。成人して変わる者、結婚して変わる者、一人前の職人になって変わる者、引退して変わる者、遁世して変わる者、といった具合です。親鸞も宗教体験のたびに名前が変わっています。範宴から綽空になり、善信となり、親鸞となっています(もしくは善信房親鸞でした)。流罪になった際には、お上からは藤井善信と名づけられたのですが、それを拒否して禿を名字にします。禿親鸞です。さらに愚禿親鸞と記名したりしております。
今のように名前が一生変わらなくなったのは、近代社会が発達してからです。そもそも「個人」という概念なしに近代というシステムは成立しません。個人を特定できなければ、「徴税」も「徴兵」もままならないですもんね。」
(釈徹宗「新たな自分が誕生する「名づけ」〜「信心・信仰と名前」より)
「現代のように、「個人」という幻想に汲々としている社会では、改名の文化は意外に大きな力となり得るかもしれません。養老孟司氏も、自己が同一だと思っているところが脳化社会の悪いところだと言っています。もう一度、改名や別名について考えなおしてみたいところです。
さて、現代もなお続いている改名文化に、戒名や法名があります。死者になると名前が変わるのです(今やそれもやめようとする傾向にあるようですが)。これはできれば死んでからではなく、生きているうちに考えてほしいところです。洗礼を受けてクリスチャン・ネームをもらうように。
名前が変わることで、生きる方向が定まり、新たな自分が誕生するような事態へとつながります。自分自身の人生を生き抜く態度が明確になることもあるでしょう。
自己同一性と名前、そして名づけや改名、名前によって新しい生き方の扉が開く仕組み、信心・信仰と名前、いずれも実に興味深い人間の営みだと思います。」
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