見出し画像

『パンデミック』を読む

ハラリは多分今、世界に影響を与える歴史学者、イスラエルにいて、政権批判をし、アメリカの政策にも苦言を呈している。

その寄稿とインタビューを集めたのが本書です。

NHKのインタビューも載っていて改めて読み返せたが、自分の仕事と関連して、注目すべきは「死に対する私たちの態度は変わるか?」であろう。

中世ヨーロッパのような近代以前の社会で感染症が勃発したときには、人々はもちろん命の危険を感じ、 愛する人の死に打ちのめされたが、主な
反応は諦めだった。心理学者ならそれを「学習性無力感」と呼ぶかもしれない。人々は、これは神の思し召しだ、あるいは、人類の罪に対する天罰
言い聞かせた。「神はすべて心得ていらっしゃる。私たち邪な人間には、これが当然の報いなのだ。だから、いずれわかるだろうが、 結局は万事最善の結果となる。心配することはな善良な人々は天国で報われる。それに、薬を探し求めて時間を浪費してはならない。この病は、神が私たちを罰するために見舞われたものなのだ。 この伝染を人間 が自らの工夫で乗り越えられると考える者は、他の罪にさらに傲慢の罪を重ねているにすぎない。神の計画を妨げ とは身の程知らずもはなはだしい 」(64・65頁)

中世の死の概念と宗教の役割が述べられ、その後今の死の概念と宗教界の態度が示されている。

今回の危機からは 謙虚さを学ぶべきだ、と主張する人がいるかもしれない。人間の能力を過信して、 自然の力を制圧できるなどと思い上がってはいけない 、と。いつも否定的な見方をするこれらの人の多くは、今なお中世の考え方にしがみついており、謙遜を説きながら、自分たちは正しい答えのいっさいを知っていると、絶対の自信を持ってい る。偏狭な人間のなかには、抑えが利かなくなっている者もいる。たとえ ば、ドナルド・トランプの閣僚たちのために毎週聖書の勉強会を行なって いる牧師は、新型コロナウイルス感染症も同性愛に対する神の罰であると主張した。だが今日では、伝統宗教の権化のような組織や国の大半でさえもが、聖典よりも科学に信頼を置く。 カトリック教会は、信徒たちに教会に来ないように指示している。イスラエルは、  国内のユダャ教の会堂を閉鎖した。イラン ・ィスラム共和国は国民にモスクを訪れないように呼びかけている。ありとあらゆる種類の寺院や教派が、公の儀式を中止している。そして、これはすべて、科学者たちが予測を行ない、こうした聖なる場所をの閉鎖を推奨したからにほかならない。(68・69頁)

ここでは、ウイルスのあり方に対応する形での変化であるが、危機に対して宗教の弱さを指摘してもいる。


人は何世紀にもわたって宗教にすがり、死後も永遠に存在し続けると信じて不安を和らげてきた。 今では精神の安定を保つために宗教の代わりに科学を頼り、医師がいつでも救ってくれる。自分のアパートで永遠に生きられると信じて不安を軽減しようとすることがある。 だが、現在必要とされているのは、バランスの取れたアプローチだ。私たちは感染症に対処するにあたっては科学を信頼するべきだが、自分は 一時的存在であり、必ず死ぬという事実に取り組む責務も、依然として担わなくてはならない。                                  実際 、目下の危機のおかげで、 人間の命や業績が儚いものであるという自覚を深める人は多いかもしれない。それでもなお、全体として見れば、現代文明がその 逆方向に進むことはほほ確実だ。脆弱さを思い 知らされた現代文明は、いっそう守りを固めるという反応を示すだろう。今回の危機 が過ぎ去ったとき、 大学の哲学科の予算が目立って増えるとは思えない。だが
メディカルスクールや医療制度の予算はきっと大幅に増えるだろう。 (70・71頁)

ハラリ自身はバランスすなわち必ず死ぬという事実を踏まえているが、社会はそうならないだろうと予測している。科学一辺倒になりかねない世界で、仏教は、寺院はどうあるべきだろうか?

1つの試金石となる事実がある。

昨今、釈徹宗先生が『天才 富永仲基』を出版された。近代的仏教学の始まりとも言える富永の大乗非仏説、我々仏教界は学問としては学んだが、祖師の言葉を未だに金科玉条のように扱いメスを入れているとは言えない。

個人的な違和感をこの際述べるなら、釈迦は智慧の行動哲学を説いた。そこには妄信はない。ところが、我々日蓮宗では祖師の言葉に基づき「以信代慧」と述べ、比較的智慧を軽んじる表現を重視する傾向がある。鎌倉時代の日蓮聖人は大乗非仏説も釈迦の直説も理解できない環境にあった。となれば、現代において、仏教と言い、宗派教でないと言うのであるなら、ある種の教義に対するメスを入れることも行わなくてはならないのではないだろうか。それは祖師を冒涜するすることでなく、更新をしなかった我々のサボタージュの証明ではないだろうか?問う考えるを怠ってきた事実を表しているかと感じるのは私だけだろうか。

ハラリ氏は本書のみならず『21Lessonns』で瞑想していることを述べている。本書のインタビューでも心と身体のバランスを重視している。基本、釈迦の仏教を高く評価し、そこに生きていると個人的には思う。

それは、「調身、調息、調心」の世界であり、上記の文章にも見える「人間の命や業績が儚いもの」、社会の「脆弱さ」の認識だと思う。すなわち諸行無常ということであろう。

パンデミックで見えてきた世界は、もう一度我々に考える機会を与えてくれている。問い考え実践する。難しいことではあるが、なさなければ、仏教はいきのこるが、日本仏教や寺院は生き残れないのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?