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釈徹宗「宗教と「笑い」(『群像』)/バタイユ「[非−知、笑い、涙]」/桂米朝・筒井康隆『対談・笑いの世界』/戸井田道三『狂言』/高橋睦郎『遊ぶ日本』/白川静『常用字解』

☆mediopos3511  2024.6.28

「笑い」は
時間を問われたときのように
問われないでいるときは
だれもが「笑い」のことを識っているのに
それを問い直したとき
「笑い」とはなにかがわからなくなる

私たちは日常的に冗談を言っては笑い
笑いたいがためにお笑いの芸を好んだりもする

「笑い」にはさまざまなかたちがあり
カタルシスとしての笑いもあれば
冷笑といったような悪意をもった笑いさえあるが

釈徹宗は若松英輔との往復書簡
「宗教の本質とは?」において
桂米朝・筒井康隆が『対談・笑いの世界』で
(mediopos-195(2015.5.29)でとりあげている)
「笑いの定義はない」と言っているように

その本質に迫ることはむずかしく
「どこまで追いかけても本質に迫れないところは
(「聖なるもの」と)似ていませんか」と問いかけている

禅は拈華微笑の「笑い」(微笑み)からはじまり
その「呵呵大笑」といった笑いは
「構築されたものを解体する、
あるいは境界を超える」ものでもある

またフランクル(『夜と霧』)が
「強制収容所のような絶望的状況において、
笑いが生命を支えることに気がつ」いたように
「不条理な限界状況においても人は笑」い
それが生きる力ともなることを示唆しているが

ジョルジュ・バタイユは
「私たちが人を笑わせることができるからといって、
私たちは笑いを惹き起こすものを識っている」とはいえず

「笑いを惹き起こすものは常に、
結局のところ、未知なもの」であり
「不可知なるもの」であるかもしれないと示唆している

そして「未知なるものの突然の侵入」は
「笑い」だけではなく
「驚愕」や「不安」などさえももたらし

「聖なるもの」と向きあうときのように
「よく識られている秩序に属している世界」の
「外」へと開かれることになる

「笑い」は日常のただなかに
「未知なもの」として
秩序の外から非日常を唐突にもたらすことで
ルーティーン化されたものを
活性化させる力をもたらすものとなるが

それはその都度
謎のようなプロセスとして働くものの
それが既知のものとなったとき
そのほんらいの力は失われてしまうことになる・・・

さて話はすこしばかり飛躍するが
日本の伝統芸能における「狂言」には
「随所・要所に「神」の影が差」しているという

狂言は
かつて「聖なるもの」とも通じていた「神々」が
「漂白の内に「落魄」しきり、「変貌」を遂げて、
世事・人事の万般にわたってややこしい
定住人間どもの世界へと交わりつつ、
なれの果ての姿を見せて跳梁している」
そのプロセスを
「猿」のごとく演じているのだともいう
(能楽もかつて申(猿)楽と呼ばれそこから狂言が分かれた)

狂言の「笑い」にも
「秩序に属している世界」の「外」へと開く
「聖なるもの」へと通じる力が宿っているのだろう

ちなみに白川静『常用字解』によれば
「笑」という漢字は
「巫女(神に仕えて神のお告げを人に告げる女。みこ)が
両手をあげ、身をくねらせて舞い踊る形。
神に訴えようとするとき、笑いながらおどり、
神を楽しませようとする様子を笑といい、
「わらう、ほほえむ」の意味となる」という

■釈徹宗「宗教と「笑い」」
 (釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?」)
 『群像2024年7月号』)
■ジョルジュ・バタイユ(渡辺守章訳)
 「講演「非−知」について」〜「Ⅰ[非−知(non-savoir)笑い、涙]」
 (清水徹・出口裕弘編『バタイユの世界』1991/1)
■戸井田道三『狂言 落魄した神々の変貌』(平凡社ライブラリー 1997/12)
■高橋睦郎『遊ぶ日本 神あそぶゆえに人あそぶ』(集英社 2008/9)
■桂米朝・筒井康隆『対談・笑いの世界』(春秋社 1999.8)
■白川静『常用字解』(平凡社 2003/12)

**(釈徹宗「宗教と「笑い」」より)

*「笑いの定義はいろいろと語られているのですが(・・・)、桂米朝や筒井康隆が「笑いの定義はない」と言っています。なぜなら「笑いの定義があると、またその定義を笑う現象が起きる。つまりイタチごっこ的になってしまうので、定義できない」のです。どこまで追いかけても本質に迫れないところは(「聖なるもの」と)似ていませんか。」

*「本稿で取り上げたいのは、宗教と笑いとの関係です。その視点で言うと、やはり「脱構築の笑い」と「共感の笑い」あたりが論点になると思うのです。前者は、「笑い」には構築された状態を解体する特性があることに起因します」

*「『薔薇の名前』の白眉は、ウィリアム修道士と、笑いの否定論者ホルヘとの議論でしょう。以下は、『薔薇の名前(上)』からの抜粋です。

 ホルヘは、

  笑いは愚かさの徴なのだ。笑いながら、人は笑う対象を信じてもいなければ憎んでもいない。つまり、悪を笑うのはそれと戦う意志がないたからだ。そして善を笑うのは善がみずからを広めようとする力を認めていないからだ。(中略)
  それゆえ、無知な輩は、笑いながら、暗に〈神ハ存在シナイ〉と言っているのだ。

 と主張し、笑いのもつ瀆神・背信性の言及します。これに対してウィリアムは、次のように反論するのです。

  理性に反した不合理な命題のもつ偽りの権威を突き崩すためには、時に応じて、笑いもまた正統な一つの手段たりうるのだ。笑いには悪者を混乱させてその愚かさを白日のもとへ晒す働きがある。

 笑い特有の働きの意義を語るウィリアムは、さらに「イエス・キリストは決して笑わなかった」と主張するホルヘに異議を唱えます。

  その点には疑問がある。パリサイ人に向かって最初の石を投げるよう促されたとき、納税用の硬化の肖像が誰かをたずねられたとき、掛け言葉を使って〈アナタハ石(ペテロ)だ〉と言われたとき、主は罪人たちをまごつかせ信者たちの心を鼓舞するために洒落を述べられた、とわたしは信じている。

 このようにウィリアムは、イエスもユーモアを語ったと主張するのです。ここでは、笑いのもつ曝露能力について言及しているのみならず、キリスト教の説教者たちも、笑いや寓話を活用して教えを説いていたという観点が示されています。そういえばクリスチャンで医師の柏木哲夫は、「『新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ入れろ』というのも、イエス様のジョーク的表現じゃないか」と言っていました。」

*「禅僧の安永祖堂は「キリスト教が愛の宗教なら、禅は笑いの宗教である」(『笑う禅僧』と言います。禅は、釈迦の「拈華微笑」から始まった、つまり笑い(微笑み)から始まったとも言われますし(これは共振現象としての笑いですね)、なにより脱構築の笑いがあります。『碧巌録』には、「呵呵大笑」の話が出てきます。

  仰山、三聖に問う。「汝、名はなんぞ」。聖云く「慧寂」。仰山云く「慧寂はこれ我」。聖云く「我が名は慧然」。仰山、呵呵大笑せり。

 現代語訳:仰山慧寂が三聖慧然に、あなたの名前は何ですかとたずねた。三聖は、真面目に「慧寂です」と答えた。仰山は「慧寂とは、そりゃ、わしの名だ」。三聖「それなら私の名は慧然です」。仰山はこれを聞くなり、腹を抱えて笑った。

 三聖が自分の名を問われて、相手の名を答え、とがめられて、早速に自分の名を言い返す。奪うも捨てるも、自在で闊達な働き。三聖の答話を聞いた仰山、思わず大笑い。すべてを脱構築する。こういうあたりは、禅の本領発揮ですね。笑いは、構築されたものを解体する、あるいは境界を超える能力をもっています。」

*「V・E・フランクルの『夜と霧』に、

  歌われる幾つかの歌、吟ぜられる幾つかの詩、収容所生活に関する風刺的な傾向をもつ幾つかの冗談、これらすべては忘却に役立たねばならなかった。そしてそれは事実役だったのである。

 という記述があります。フランクルは、強制収容所のような絶望的状況において、笑いが生命を支えることに気がつくのです。

 考えてみれば、私たちは「笑う」という行為がもたらす身心への影響について、経験的に知っているところもずいぶんあります。だから古来、「笑い」の祭礼があるのでしょう。和歌山県の丹生神社の丹生祭は、奇祭「笑い祭」で知られています。大阪府の牧岡神社も「天照大神の岩戸隠れ」にちなんだ「お笑い神事」を行います。「笑い講」を続けている地域もあります。最近では「笑いヨガ」なんてのもありますよ。「笑い祭」のように、神へと笑いを奉納するのは、地域の人々がより良い日常を生きるためです。」

*「とにかく、〝笑い〟はあなどれません。

 不条理な限界状況においても人は笑う。当時者が苦悩と向き合うなかで、生み出される「にもかかわらず笑う」という態度。それは、「少なくとも私は今、ここにいる」といった表明なのかもしれません。もちろんそういう意識も無い場合が覆いのでしょうが。とにかく笑うことでその事態の色彩が変わることは間違いなさそうです。」

**(バタイユ「Ⅰ[非−知(non-savoir)笑い、涙]」より)

*「認識は認識された事物のある程度の安定性を必要とする。いずれにせよ、識られたものの領域はある意味で安定した領域であり、そこでは人は自分を喪わずにいられるが、それに対して。未知なものにおいては、必ずしも動きがあるというわけではないし、事物は不動のままでいることもあるが、しかしそれにもかかわらず、事実上存在し得るあの安定性というものの保証がない、それどころか、生じるかもしれない動きの限界というものについてさえ保証がない。未知なるものとは、言うまでもなく、予見できぬものごとなのであります。

 この未知な、予見不可能な領域のもつ最も著しい特性の一面は、笑いを惹き起こすもの(le risible)において示されています。私たちのうちに、私たちが笑いと呼ぶあの反応、人間の奥底からの顛覆、息のつまるあの不意打ちの驚きという反応を惹き起こす事物のなかにおいてであります。」

*「常に言われるように、識るとは行なう能力があるということです。しかし私たちが人を笑わせることができるからといって、私たちは笑いを惹き起こすものを識っていると言えるのでしょうか。笑いに関する哲学上の研究の歴史を見ると、とてもそのようには思えません。畢竟、その歴史は、解決不能な問題の歴史なのです。あれほど容易に捉えうると思われていたものが、絶えず逃れ去っていく。笑いの領域は結局のところ————少なくとも見た限りでは————閉ざされた領域であり、笑いを惹き起こすものは未知の、認識不可能なものなのです。」

「最もよく識られているのは恐らくベルクソンの説〔『笑い』〕、つまり生きたものの上に貼りつけられた機械的なもの、という説明でしょう。この説は、しばしば正当化しがたい不詳の対象となっているらしい。私は、殊に、フランシス・ジャンソンがマルセル・パニョールの説を重視そているのを見て驚いています〔ジャンソン『笑いの人間的意味』、パニョール『笑いについて』〕、というのも、パニョールの説はさして独創的でないばかりか、最も粗雑な理論の一つだからです。『マリウス』の作者にとって、笑いは笑い側の優越感に呼応するものなのであります。パニョールの小冊子は、笑わせる技能と笑いを理解することとはそれぞれ別物だという考えを裏書きしてもいましょう。」

「研究の数はふえたが、私たちは、笑いの本質を説明することができないままでいる。個々の論者の信念を一歩外へ踏み出せば、私たちには笑いというものの意味がわからないし、笑いを惹き起こすものは常に、結局のところ、未知なものであり、突然私たちに襲いかかって、私たちのうちの慣習的土台を覆し、私たちのうちに、あの「表情の突然の拡大」を、あの「喉頭から発する爆発的な音」を、あの「胸郭と腹部の律動的な振動」を作りだし、内部から私たちを照らしだし、狂騒に至るまで私たちを押し拡げてしまう、そのような一つの未知なるものなのです。(・・・)笑いを惹き起こすものが未知なものであるばかりでなく不可知なものであると想定するなら、私たちはここにもう一つの可能性に直面するはずであり、笑いを惹き起こすものは単純に、

   不可知なるもの(l'inconnaissable)

 であるかもしれず、言いかえるならば、笑いを惹き起こすものの未知であるとう性質は偶発的なものではなく本質的な事態かもしれぬということになるのです。私たちは、私たちが資料や十分な探求が欠けているために理解しえぬような一つの理由のために笑うのではなく、

   未知なるものが笑わせる

からであり、すべてが安定しかつよく識られている秩序に属している世界から、突然、私たちの確信が覆される世界へとはいりこみ、その時、このような私たちの確信がまやかしのものにすぎず、どんなことでも厳密に予知できると信じていたところに予測不可能なものが侵入してきた、つまり、皮相な外見が覆い隠している最終的な真理、すなわち私たちの期待に反して答えが完全に不在であることを啓示するあの予知不可能にしてすべてを覆す要素が突然出現したことに気づくときに、私たちは笑わされているのであります。結論的に言えば、認識の働きがかくのごときものであるから、世界はその全体において私たちの手の届かぬところに置かれてあり、私たち自身がそれであるところの存在さえも、手の及ばぬところにあるということなのです。私たちが笑うのはまさにこのことなのであり、これこそが私たちを照らし、私たちを歓びで満たすものにほかならないのであります。」

*「未知なるものの突然の侵入は場合に応じてその結果として、笑いとなるか涙となるが、しかし単に笑いと涙だけではない————アルフレッド・ステルヌは最近『笑いと涙の哲学』という興味深い著作のなかでこの二つを研究している。笑いと涙に、詩的なものと、神聖さの感情と、そして更には不安と忘我・恍惚とを付け加える必要があります。」

**(高橋睦郎『遊ぶ日本』〜「18 笑いの定着 狂言」より)

*「高く尊いものを低く賤しい自分に引き寄せるために、ほんらいあるべき絶対の姿から仮の姿に引きおろすことをもどきというなら、神を迎えるということ自体がもどきである。神はそのままで神なのだから、神の立場からいえばわざわざ人に迎えられる必要はない。しかし、人の立場からは訪れていただかなければならないし、迎えさせていただかなければならない。つまり、神むかえ自体がもどきということになる。またもどきはあそびともいえる。そのままで神である神が人のもとに訪れるのはあそびであり、ひるがえって人のがわからは神に訪れていただくことがあそびになる。篝火を焚いて神にあそんでいただき、そのことによって人もあそぶ。」

**(戸井田道三『狂言 落魄した神々の変貌』
   〜横井清「解説————「をかし」の世界を照らす鏡」より)

*「(本書で)説かれ続けたのは、実に以て「神」対「人」のことであり、狂言ではお馴染みの、根っからの悪としての「すり・すっぱ」も、不自由な「めくら」も、いんちきの「山伏」も、さらには「門づけの遊芸人」や「祝言の徒」も、さらには「猿」でさえもが、元をただせばすべて往古の小さき神々の影を宿すものたちにほかならぬ。時代を追ってそれらの神々は、漂白の内に「落魄」しきり、「変貌」を遂げて、世事・人事の万般にわたってややこしい定住人間どもの世界へと交わりつつ、なれの果ての姿を見せて跳梁しているのだという。そのプロセスが、狂言という名の芸能の、変貌の過程なのだ。戸井田はいう。

   小さな神々とそれを演じるものとがかさなりあい、神々がおちぶれるとともに、演じるものたちは仮面をぬがされてくる。現実の溢れ者、すりやすっぱが反逆をこととした小さい神たちの本性を外部からおしつけられ、自らもその性格を内部に保存して、狂言の世界に転生してくる。(下略)

 そのように観て行くので、狂言一々の随所・要所に「神」の影が差す。」

**(桂米朝・筒井康隆『対談・笑いの世界』より)

*「筒井/東京で、人のいるところで二、三人で笑うたりすると、自分が笑われているんやないかとか、不謹慎に思うとかで怒る人がいる(笑)。大阪では、それはあんまりない(笑)。

「筒井/大阪では河内音頭というのがあるけれども、ぼくの感覚では、何というのかな、わたしはアホでちっとも何にも知らないけれどと、自分を徹底的にまず貶めておいて、それから政治をやっつけたり何やかやという、あれは笑いではなくて。

 米朝/そうそう。あれは演出やね。

 筒井/自分がいかにアホで駄目な人間かというのをえんえんとやる。それをえんえんとやったやつほどうまい。

 米朝/今年あたりでもまだ夏場になったら、河内のほうへ入ったらやってますけど、いっぺん行ってもきっと面白いわ。今言うた、自分を貶めたり。こんな文句も何もちっとも読めないけれどとか、せんど言うて、本文をちょこっとやって、切り場がこれまた長い(笑)。この先まだやりたいけれどもとか何とかかんとか言うて、最前からちょっともうええ加減に下りいという合図があったやとか(笑)、次の先生がお待ちかねやとか何とか(笑)、言うて、初めが五分くらいで、おしまいも五分あって、間の本文も五分ぐらいしかないのや(笑)。面白い。」

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