公の場で自分の名前を間違われると、怒りを感じる人は少なくないだろう。「名前=私」。だから間違われると、腹が立つ。でもここで、「それは本当?」と問いかけてみよう。否。この世に生まれた瞬間は名前などなかった。少なくとも認識していなかった。その原点に立ち戻れば、名前は服。私ではない。
「捨てる」ことをどこかでずっと意識し続ける毎日を送っていると、「これは手離せない、ずっとそばにあって欲しい」という対象に出会った時の重みがまるで違う。なんとなくではなく、ハッキリと、「執着している」ことが体感覚でわかる。それは、愛と同義なのかもしれない。