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執着を手放す方法

「結婚観と、手放せない執着」というショート動画が好評だったのと、その後のLIVEでもみんなが、執着という感情を手放すことがなかなか難しいということがわかったので、良い未来への切符になるようなものをがっつりと書いてみます。



ポジティブなようで、執着なもの

まず、執着の手放し方の前に、落とし穴が実はあります。

「結婚観と、手放せない感情」👇


という自分の動画で、「自分がこの社会で苦しい思いとかしてたら、同じような思いをさせる可能性が一ミリでもあるなら、私は子どもとか産めないわ〜」

みたいな表現をしたのですが、

これってつまり、負の連鎖を断ち切るために、良い未来を築くために私はこの選択を取る!ってことなんですね。

こういうポジティブな考えでも実は執着という感情に結びつくことがあって、

よくある話で言うと、親の教育が自分は嫌いだったからそれを反面教師にして、私は絶対にそんな教育をしないぞ!みたいな。

これ、一見ちゃんと自分と向き合って出した答えのようにも思えるのだけれど、このままではダメなんですね。

今の自分の生き方や、自分が楽に生きていくということにおいて、嫌だった経験や、絶対にこうなりたくない!という過去が起因の感情を軸にすると、そこから執着が生まれ、なりたくないと思えば思うほど、なりたくない状態に自分がなっていくのです。


これが何故かというと、脳って意外と馬鹿なので、「絶対こうなりたくない」という否定系よりも、単なるその意思の強さを受け取るからなんです。

だから、あれ、なりたくないのか、なりたいのかどっちか忘れちゃったけど、とりあえずなんか強く願ってるみたいだし、そういうふうに叶えてあーげよ!

みたいな勘違いを起こして、そういう現実が訪れるという仕組み。

だから、潜在意識は否定系を受け取れない、ということを覚えておくと良いですよ。


肯定文を作る

では、どう考えたら良いのかという話を、さっきの親の教育を反面教師にした場合を例に出しながら。

「絶対私は子どもにこういう教育をしない!」
「私はその教育を受けて嫌な思いをしたから!」

この感情がベースにある場合、

“こういう教育をしない”の反対側は何かを考えてみる。
“じゃあ自分はどういう教育をしたいのか”ということ。

「自由でのびのびとした教育をする」

という想いが出てきたとして、

ここで大切なのは、

「私は過去にこういう嫌な経験があるから、自由でのびのびとした教育をするんだ!」

という考え方を持たないことです。
きっかけはそれでいいんです。そういう経験によって、今の自分があるのだから。けれど、この考え方をずっと抱いているとそれは、過去への執着へ変わることもある、ということ。

何故かというと、この考え方の場合、軸は”自分の過去の経験”にあるから。だから、こうなる、こうする、って考えていくと、その”自由でのびのびした教育”をしてうまくいかなかったときに、

私のエゴだったのかなとか、
同じ思いをさせたくないって思ってたけどもしかしたら親と同じことをしてしまっているのかも、
と、

不安が募る原因になります。


だから、過去がどうだったから、この未来を描くのではなく、
今の私は、こういうことをしたいから、それをするのだという、今の自分を軸にした肯定文を作って、決断をしてみてください。


過去を癒すな

そもそも、執着とかそういう強い意志って、過去から現在に至るまでの長い時間の中で熟成されています。

つまり執着は常に、”今の自分”の感情量より勝ってしまっているんですよ。

執着を手放して楽に生きようとした時にするべきことというのは、過去の想いを大事にすることでもなく、過去を癒すことでもないのです。

今の自分の想いが、常に過去の自分の想いよりも多い状態を目指すことが近道だったりする。

例えば、

「自分は学生時代にいじめられていて辛い想いをしていたので、そういう困っている人を助けられる人になりたいと思ってこの活動をしています!」

とか

「私は家庭環境で苦労したので、一人でも多くの学生に安心できる居場所を作りたいと思って、カウンセラーになりました!」

とか

こういう過去の体験から何かを目指す、もっとより良い未来にしたくて誰かのために何かをしたいと思う、こういう構文よくありますよね。

これを信念にすることってとっても大事なんですけど、ずっと過去の想いを抱えて活動したり働くことで自分がどんどん苦しくなっていく人って実は多いんですね。


私も、noteや動画でよく自分の過去を語っていると思いますが、毎回、「こういう人に苦しめられたから、だから私はこうなったんですよね」って言ってたら多分みなさん、「もういいってその話」ってなってると思います。笑


今の自分の話や考え方を中心に共有するから、みなさん、「まあやさんが今の考え方になった経緯を聞きたいです」と思ってくれるわけなんですね。

つまり、これが過去<今 の状態。想いも、行動も、全てが過去を超えた時、執着を手放して今を楽しめます。

何かを始めるとき、最初は別に過去がきっかけでいいんですよ。
だけど、過去にいじめられたことがあるから、いじめ相談所みたいなものを作ったとして、

過去に囚われている状態の時ってね、今の自分の行動がほとんどエゴになっていきます。

自分がこうだったから、こういう場所を作りたい。
自分はこういう想いをしたから、そういう子どもを減らしたい。

その想いって、過去なんですよね。

きっかけはそれで良くて、けれど、一歩歩み始めたその瞬間から、自分の目の前に映る景色というのは、紛れもなく”今”という時間なんです。

今、目の前の人はどう思っているか。
自分は今それをやってみてどう思ったのか。

もうこの一歩目から正直過去のことなんて、気にしている暇ないんですね。

そして、この今の課題を自分が見つけ、今の自分によって行動していくから、今に夢中になれるんです。これってね、過去がどうこうだったから、今の自分はこれをやってるってことじゃないんです。今は、今のやるべきことがあるから、やっているだけで、後ろを振り返ったら、そういえばあんなこともあったな、と思える状態になって行くのです。


許せなくていいから

そして、執着を手放すのに一番難しい難関がこちら。

「過去を、自分を、他人を、許すということ」

大体の人が、「許せません」で終わってしまうと思うし、もしくは必死に考えないように生きているかもしれません。

「許せない」と思っていいんですよ。
「許せない」選択をしていいんです、自分が許せないなら。

でも、一つだけルールがあって、許せないと決めるだけということ。
許さないから、不幸を願う。
許さないから、復讐する。

こうやって、許さない先は作らないことです。

許すとか許さないって、そんな瞬間的にできることじゃないんですよ、そもそも。だって考えてみてください。自分が、相手に傷つけられた時間って何秒間とかそんな話じゃないですよね。

長い時間をかけて、自分の心を蝕んできた出来事に対して、そんな簡単に判断を下せないのが普通なんです。

だから、許せないという感情に苦しんでいる時は、許さないという決断をゆっくり出してみてください。

許せないと決めても、視界に入ってくると思います。幸せそうな自分を傷つけてきた人間の姿とか。でもね、その度に、許せないという感情が湧き出てきたら、またこうして決断した時に戻ってくるんです。

その先には関与しない、と決めた今に。

どれだけ自分に酷いことをしてきた相手だとしても、妬み、恨み、嫉みは、苦しみしか生み出さないのです。


じゃあどうやって許すんですか

って話。

まずは、私がどうやって自分と他人を許してきたのかということを書きたいと思います。

皆さんご存知の通り(?)完璧主義で、正義感100%みたいな、超生きづらい性格だったので、ありとあらゆる事象や、人を許せずに生きてきました。

例えば、バイトひとつするにしても、他のバイトの子が理不尽な態度を社員に取られていたら社長にまで「これおかしくないですか?」って証拠を握りしめて、直談判しに行ったり、常に世の中の不条理に盾をついて生きていたな、と今では思います。

親との関係性でも、「ごめんね」という言葉では、やっぱり許せなくて、今までのことを全部その言葉で済ますなんて、絶対に私にはできないって思ってました。

だけどね、苦しかったんですよ。
そんなふうに闘うことが。

人を許さないってね、自分を許さないことと同じなんです。

私が、誰かをずっと許さずにいることって、過去の私がずっと悲しいままなんです。

本当は人を許すことが嫌なのではなく、過去を捨てて生きていくことが怖いのだと途中で気づきました。

今でこそ思いますが、過去の記憶はなくならいですが、”今”をちゃんと生きる覚悟さえあれば、勝手に過去の存在というのは薄くなっていくんですね。



過去の辛かった経験や、誰かに傷つけられたことって唯一自分だけがその痛みの深さを知っていますよね。

最初はそれをわからせてやりたい、同じ目に遭えばいいのにって思うと思うんです。だって、フェアじゃないじゃないですか。

だけどね、人間、他人の不幸では満たされないんです。

同じ想いをずっと抱え続けている時に、そのことにいつか気がつくと思います。
だけど、その時間が長くなってしまっていたら、きっと、その想いを、過去を、手放すことが怖いと思います。

それを捨てて、自分に何が残るのだろうとか。
何が起こるかわからないような”今”に、手ぶらで立つことに怯えてしまう時も。


それでも、”今”の力ってすごくてね、今を生きるから、今の自分に目を向けるから、過去を許せていくのです。


ニュートラル


もういいって、ニュートラルの話、って思いました?笑

まあ、ここからは余談なので、気になる方はお付き合いくださいませ。

私は、好きなタイプとか無いのですが、本当に強いて言葉にするのなら「ニュートラル状態に戻れる人」なんですね。

執着心を抱いてきたからこそ、それを手放した今があるからこそ、他人が持っている苦しみという感情を凄く敏感に感じ取ることができます。役に立たないような特技です。


人と話していると、「俺は昔こうだったからさ〜」「私はこういう子どもだったからさ〜」って過去を軸に話す人っているじゃないですか。

そういう人って、やっぱり今の行動量が過去から今に至る時間の長さと想いの質量に負けているんですよね。

でも本人はあまり気づいていなくて。

「でも、まあ、なんとか今頑張れてるからいいんだけど」

なんて、曖昧な話の終え方をするわけです。
だけど、私には本当はもっとこういうふうに生きたい!という叫びが聞こえてくるのです。

私はこういう時、助言なんて偉そうなことはしないですが、こういう人って実は世の中にたくさんいるんですね。

地位や名誉を手にしている方でも、悩みなんてなさそうな人も。

特に30代40代は過去の時間が長くなっていく上に、周囲の目に見える成功が視界に入ってきやすい時期なので、今の自分のアイデンティティや強さが、美化された過去とか後悔によって侵食されていくことが多いのだと思います。

別に、許せない特定の人物がいるってわけじゃなくても、ただ普通に生きているだけで、執着って生まれるんですよね。

いつからか、若い人にばかり目がいくようになって、若さを羨ましいなって思うようになったり。

こういうのって歳を重ねるとありがちですが、こういう感覚になった時に、歳を取る醍醐味を自分で味わって楽しめるような人間でありたいなと私は思ったりします。


だから、人のこととか、過去のこととかよりも、今この瞬間、
「あ、今日家にブドウがあるけど食べる?」みたいな会話を重ねることができる人が好きだったりします。めっちゃわかりにくい例えですが。


最後に

最後の章を書いていて思い出したんですけど、恐怖話をひとつ。
インスタって、自分がフォローしている人がおすすめの動画にコメントしていたりしたら、この人がコメントしてるよ〜って表示がされるし、コメ欄開いたら一番上に表示されるじゃないですか。


で、一年前くらいに元恋人がコメントしてるって動画が流れてきて、なんとなくコメ欄開いてみたら、まさかのアンチコメントしてたんですね。笑

「ダンス下手」とか
「場所をわきまえろ」とか。

あのー、ちなみに、彼は30代後半です。
もうね、初めて見た時はゾッとしました。アンチの中身が見えて、尚且つ知っている人、しかも元恋人って構図って、、、と。

いい歳してさ〜と、最初思ったんですけど、私の大好きな考察と分析モードに入って考えてみたんですね。

彼がいないところで聞く彼の印象というのは、「あの人、モテるよね」みたいな言葉で、つまり外見とか、仕事とか、恋愛とかも、別に困ることないだろうな、みたいな感じに見られているんですね、表面は。

だけど、私はすぐに彼の執着心を見抜きました。(合ってるかどうかは知らん)

30代後半って、「生き甲斐探し」の時期なんですよね。

そこに足りていないのは、
”必死に生きる”ことなんです。

誰か運命的な人が出会えたらその時は生き甲斐が生まれるかも、
いつか家庭を築いて子どもでも生まれたら、生き甲斐ができるかも、

そうは思っているものの、別に今何かを変えるわけじゃない。

だけど、SNSを見ると、色んな挑戦や失敗で溢れていて、そこに熱量を感じてムカつくのだと思います。本当は今、自分が心の底から欲しいものだから、そうやって夢中になって生きることが。

環境も整って、お金も貯まって、色んなことができる30代、そこで立ち止まることによって、凄いスピードで動いていくSNSの中の目標、決断、行動から目が離せないのだと思います。


20代後半の、まだまだ浅い経験による考察なので悪しからず。



くだらない話も混ぜ込んだ、執着を手放すnoteを読んでくださった方、ありがとうございます。今日のnoteは5600字ほどあります。こんな書くつもりはなかった。

ではまた!


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