おはようございます☺️ 大好きな飲み物で 今日も一日 素敵な日になりますように✨ 何だかアウトプットしすぎて 言葉が何も出てこない! … …… 本当に何も出てこない! 困った! カサカサの乾燥脳に せめてもの潤いを…☕️
なにもないわけはないので数文字を吐き出してみてあるはあるとす
昨日の言葉は 今日になると嘘になる そして 明日になるとみんなそれを信じ始める 嘘か本当かなんて どうでもいいんだよね 物体も名前も想いも 信じる者がいなければ そこにはなにもない 人間もそう どんな人がそこに立っているかなんて 見る人次第の 人間世界
何も楽しくない。何もないね、ほんとに。
自分には今、なーにもない 地位も名誉も 自分を物語る上で 必ずや必要とされる人も 今はただ、なーにもない けれど、 なーにもないって、素晴らしいね
みんな、なんで生きているんだろう? 何か面白いことでもあるんだろうか。 それとも楽しいことでもあるん? さっぱりわからへん。 はやく消えてしまいたい。
憎しみは己の心を傷つける。だが無理矢理その感情にフタをしても、いつの日か抑圧された憎悪は、心の深部を侵食する。憎いのなら…まずは憎めばいい。その心の様を眺めてみるといい。その感情がどこから湧いてくるのか、観察するといい。そこから憎しみと和せる一歩をふみだせる。
すべてはコトワリのなすがままに、あるがままにうねっている。ただ人のみがそれに抗っている気がしている。だがそれすらも摂理の内なのだ。だから人はひたすらに唱えるしかない。南無阿弥陀…と。
恐れることはなにもない。
人の存在を無条件に担保してくれる超越的な存在を感じられないのなら、死にたいという気持ちに囚われても仕方ないことだろう。そんな人間に「生きろ」と言っても虚しきことだし、励ましにもならない。その人がゆっくりでもよいから一歩を踏み出すまで、その死にたいという気持ちに耳を傾けるしかない。
「なにもない」ときも、貴重なプロセス。 次に向かう準備をしていると思えば そんな自分を否定したり、ダメ出ししたりしなくてOKなのだ。
今日は裏山に溜めた、木の枝を燃やそうとしたら、なかなか燃えなくて、半日で、諦めた。 ほんとに何も書くことも 書く気にもならないほど つまらないというか、 思い通りにいかなくて 軽いストレスが 溜まった日だった
理不尽に見える運命でも、それを今ここで私が授かった以上、ツトメを果たし抜くしかないのである。人間の視点からのツトメではない。神や宇宙のコトワリが課すツトメのことである。ひたすら運命を受け入れて、まっすぐ真摯に取り組むことができる人は、天から寵愛された人間なのだろう。
我もなし世界もなし意味もなし、ただあるがままがある。自我は分別により世界を彩り、そして意味に囚われる。あるがままに立ち戻りたければ、ひたすら何事かに没頭する三昧が有効な時もある。打ち込み、私が薄れゆき、分別すらなくなるところに、あるがままへの道標がある。
怒らないようにする、という決意は無駄に終わることが多い。怒りは人の本性に根ざしているからだ。なにより不正に対して怒りを失ってはならない。それよりも同じく本性に根ざした慈しみや共感する力を高めることに心を砕いた方が良いだろう。人の短所とは調和して、長所を伸ばしていくのだ。
心中での祈りですら文法を気にする私に気づき苦笑いする。神は私の思いと願いをあますことなくご存じだ。言い方や形式にこだわることはない。私の素直な祈り方で、言葉が心の口をつくまま祈るといい。
例えば道端に落ちている空き缶を拾うだけのことでも、今ここにいる私にしかできないことなのである。刹那の永遠を超えて、宇宙のコトワリが私をそこに導いた。大袈裟なことなのだろうか?いや、大仰でも取るに足らないことでもない。ただ、その導きは尊きことなのだろう。
人は運命に何も手を下せず、敬遠な祈りを捧げても親しき人は理不尽な事故で召される。己にこだわっていれば真理には気づかない。運命に翻弄され、嘆き泣き喚き、それらを全て受け入れた時、これまでも受け入れていたことに気づいた時、道は拓かれる。