この世の理を嫌い宇宙法則を学ぶ多くの人が、 理想の姿が富裕層のセレブイメージで、 この世の理に捕われてる 自給自足などを目指すのは反発に過ぎず、 この世の理に囚われてる 状況でも境遇でも、 この世の理に縛られ、嫌う中から抜けてない それに気づいたら、わずかなほつれから抜けられる
私は痛みと恐怖が無ければ いつ死んでも良いと思っています。 この世に未練はありません。 しかし生かされている以上は 心身共に健康でいたい。 ただ単に 不快を味わいたくないからです。 しかしその結果 長生きする可能性が高まる…。 人生とは矛盾に満ち溢れている ものですね。
言語化の壁。言語化すればするほど深みにハマる。言語より先にこの世は存在しているのだ。
朝、ごみ捨てからの帰えり道、寿命を全うしたセミが道端で死んでいるのを見た。生きとし生けるもの、何のために生きているのだろうか? そんなこと思いながら家に着き、ポストから新聞を取ろうしたら、ある宗教の小冊子がポストされていた。 読んだ感想はというと、 この世もあの世も不条理。
この世のあらゆる存在は、観測されなくとも、存在している。
この世の全ての情報を得られるとしても答えの出ない問い、はあるだろうか?
精神がなかったら、この世は、あらゆる物体の位置がひたすら絶え間なく決まり続けているだけ、ということになるだろう。
「全体」は、1つしかない。
この世は無限の点で埋め尽くされてる 果てはない 瞬間瞬間 位置が変わるのは 時間の仕業 xyzをtが決めるんだ だから万物は移動できる 言っている意味がわからないかい わかっておくれよ 不思議なのは心 精神 物理主義では解き明かせない なんなんだろうね ふぅ
やっぱり何度考えてみても、この世は一通りである。
この世の全貌なんてわかるわけないかもしれませんが、偶然にしては出来過ぎも出来過ぎだし、必然だとしてもなんでこの運命なんだと思いませんか???不思議すぎて不思議すぎて、頭が追いつかないけれど、感動している感じです!
この世は言語化される前に既に存在している。
そもそも、この世はあってもなくてもどちらでも良いのに、なぜあるのだろうか?実はこの世なんてなくて、この世があると思い込んでいるということはあり得るのだろうか?なーんてことを吟味中です。
この瞬間が穏やかであれば、これ以上望むことは何もありません。
お疲れ様です。「この世はなぜあるのか?」なんてことを考えるのは、無意味なことでしょうか?無意味かどうかは僕次第でしょうか?なぁんて、皆さんにお尋ねするのもナンセンスですよね。こんなことに悩むなんて、非常に悩ましいです。いつまで生きていられるのかさえわからないのに。困ります。
よくよく考えてみたら、わざわざ逆再生で録画しなくても、順再生で録画して再生すればよいですね。時間が進むって、こういうことなんですかね?
この世の全ては常に同時に成立している。想像を絶することだと思います。
あらかじめ撮影された映画を再生するように、この世が進んでいるとしたら、ちょっとだけ納得のいくこともあるかな。でも、理不尽なことや不幸なことの方が多いようにも思えて悲しいかな。