どうせなら良い影響を与えられる人になりたいんだけど
どんなに世の中が暗くなったって、乱れて同仕様もなく混乱しても、その中でも〝自家発電〟して明るいものを提供できるのが、私なりの「文学のあり方論」……(文学者とは言えない私なのですが)。
読んでくださる方を鼓舞するような元気づけるようなものを目指してやってきた。(けれど、時々落ち込むけど)。
私なりに物を読むときは、為になること、気力を奮い立たせてもらえるものを選ぶようになってかなりの年月が経つ。
青少年のように自分の心の確立のため、心の奥底に向かい合い、汚いものも、綺麗なものも見てみたいような年齢ではなくなった。
汚いものも見てみて、綺麗なものの再確認や、比較、研究するような年齢でもない。
この世が、穢れて汚いものなら、なるべく綺麗でそのうえ、高尚なものを見つめていたい。
高尚なものを見失ったらどうだろう。
高い目標を見失ったらどうだろう。
世の中の人が皆、嫌な人で、卑しい人で、意地悪な人だと思ってしまったら、生きていくのにどれだけ辛いだろう。
ならば、道を行くとき、すれ違う人の小さな心遣い、
小さなお店の小さな心遣い、
疲れて打ちひしがれた時の何気ない全く知らない人からの心遣い、
子供達が笑顔でお返事してくれること。
こんなことをココロにしっかり刻んで生きていくほうが心が荒ばずに進んでいける。
なのに、なんで何もかもを否定してしまうんだ? と、思う。
人には、確かに〝善意〟が存在するのに、
「世の中は嫌なものだ」と、
「騙し合いだ」
「蹴落とし合いだ」と。
ココロが、苦しくなってくる。
私はそんなんで生きていきたくない。
こちらが差し向けた善意の手の平を、
「悪意だ」と、決めつけて払い除けるどうしようもなく
哀しい人もいる。
けれど、一度や二度で諦めるのは早計だと思い、ずっと続ける。
顔の見えない交流だと失敗だらけだが、
顔を合わせる交流は、それが成功する、若しくは成功に向かうことが多い。こころある人には。
血肉の通った交流……
それは、ともかく。
私は、人に影響を与えるなら、良い影響、ポジティブな影響、プラスに物事が運べる影響を与えたいと思う。
時々、弱音を吐いているけど。
基本
良い影響やプラスの影響、生きていく上で、前を向く、建設的にやっていける
前向きな気持ちややる気を起こさせる、
そんな物が書きたいんだ。
シロウトだけど。
どうせなら、「悪い影響を与える人」と言われるより「良い影響を与える人」と言われたいから。
©2024.5.25.山田えみこ