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音楽史11『古典派音楽の発展』


フランス革命

 古典派音楽は18世紀中頃から19世紀初期の西欧音楽で特徴としては整った展開の重視があり、その時代は理性や論理を重視する平等や人権、主権などを唱えた啓蒙思想が広まってフランス革命の王処刑やアメリカ独立戦争のアメリカ合衆国誕生などで絶対王政が崩れていき、さらに産業革命で西欧が他を圧倒する力を持ち始めたという激動の時代であった。

 「古典派」と言う名前は感性や装飾を重視するバロック芸術や、フランスで生まれた優美なロココに反対し、芸術は古代ギリシアのような厳かなものであるべきとするゲーテなどの「新古典主義」が広まっていた時代に栄えた様式だからであり年代とは関係がない。

 古典派音楽が開始した18世紀中頃には多くの流れが存在していたものの、一般的に古典派音楽はバロックの極度に洗練された様式ではなく自然でバランスの取れ明瞭な音楽とされ、具体的には最も高いメロディー部分が最優位で他はそれに合わせる作曲方法となり、華やかなメロディー、先行と帰結に分かれたフレーズ、トニック・ドミナント・サブドミナントの明確なコード機能分類、ドミナントとトニックの和音でのしっくりくる結び、暗い短調ではなく明るい長調、明確な拍、強弱など細かい部分までの調整が好まれた。

有産市民

 オペラでは現実感や内容と音楽の融合などより高度なことが求められ、また、音楽を聞く客達もルネサンス音楽やバロック音楽の頃とは違って貴族ではなく裕福になった富裕市民階級になっていき、音楽がより一般の娯楽になっていったことで、一般人への音楽教師や楽譜販売、民衆向けの演奏会で上流階級に保護を受けず活動することが可能になったという点は重要である。

 1750年代、協奏曲や交響曲のようなオペラや合唱のおまけ的な楽器のみの形式が、宮廷で大流行し独自のジャンルとして影響力を持ち、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンという主にエステルハージ家という大地主に仕えたドイツ(オーストリア)の作曲家は数多くの交響曲、管弦楽曲、協奏曲を作曲、交響曲の父と呼ばれる程大きな影響を与えたとされ、さらに当時は誕生したばかりのピアノを用いた楽曲を大量に作曲し、2本のバイオリンと1本ずつのヴィオラとチェロによって演奏される「弦楽四重奏」という技法も確立した。

 ハイドンの代表作としてはエステルハージ時代の朝昼夕の三部作など、『驚愕』などのロンドン滞在中の作品、再びウィーンに戻った後には神聖ローマ帝国(ドイツ)の国歌となっている『神よ、皇帝フランツを守り給え』、著名なオラトリオの『天地創造』と『四季』などがある。

ゲーテ

 1770年代、ゲーテの若者が失恋し自殺する小説『若きウェルテルの悩み』が社会現象を巻き起こしたが、ドイツではこのような感傷文学に触発された古典主義芸術や理性を大切にすべきという思想に反対し、理性よりも感情を重視する「シュトゥルム・ウント・ドラング」という芸術運動が発生、音楽にも影響を与え、ハイドンやC・P・Eバッハなども感傷的な短調を作曲している。

 また、この古典派音楽の時代の音楽の中心地はドイツ、当時の正式名称では神聖ローマ帝国の帝都のウィーンという町で、そこでは18世紀後期、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという音楽史上最も著名な作曲家が大きな人気を獲得、ハイドンとバッハを基礎としているものの、彼らと違って長調の明るく華やかな曲を多く作曲しており、当時の流行ではなくルネサンス音楽の時代の対位法を用いた作曲も行い、ジングシュピールという大衆演劇のジャンルも作成した。

 モーツァルトはかなり多くの楽器を組み合わせて使用するなど作曲技術も高く、何よりも作曲した曲の数がかなり多く、その多くがクラシック音楽における人気曲に入っており、代表曲としてはオペラで『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』など、主教音楽で『レクイエム ニ短調』、交響曲では36番リンツ、38番プラハ、39番、40番、41番ジュピター、ピアノ協奏曲で20番や21番、セレナードで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、ソナタで『トルコ行進曲』、協奏曲で『クラリネット協奏曲』、変奏曲で『きらきら星変奏曲』などがある。

 また、イタリア生まれイギリスで活動したムツィオ・クレメンティという作曲家はピアノのソナタで大きな人気を得て、当時はモーツァルトの競合相手となっており、二人はピアノでの作曲の可能性を大きくひろげた。

 また、同時期のイタリア出身でスペインにて活躍したチェロ奏者で作曲家のルイジ・ボッケリーニはチェロの協奏曲・ソナタにだけでなく弦楽四重奏やそれにヴィオラやチェロを追加した弦楽五重奏も多く作りチェロ音楽を開拓、優美で憂い的な作風で『ボッケリーニのメヌエット』などを書いた。

サリエリ
マルティーニ
アルブレヒツベルガー
ヴィオッティ

 他にもヴェネツィア出身のアントニオ・サリエリは神聖ローマ宮廷に仕えてオペラ、室内楽、宗教音楽で作曲家として名声を得たほか、後に世界で最も偉大な音楽家達と言えるベートーヴェン、シューベルト、リストを育て、長く忘れ去られたが映画や舞台で再評価されており、他にも理論家・教育者ではジョヴァンニ・マルティーニと、ベートーヴェンの師匠の一人であるヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー、サルデーニャ出身でフランスで活躍したヴァイオリニストのジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティが著名である。

M・ハイドン

ディッタース
シュターミッツ

 他にもこの時代、ドイツではハイドンの弟のミヒャエル・ハイドン、チェコで活躍したカール・ディッタース、マンハイム楽派でも欧州各地を回り数多くの曲を書いたカール・シュターミッツ、スウェーデンに行ったヨーゼフ・マルティン・クラウス、イギリスやフランスに行ったピアニストのヤン・ラディスラフ・ドゥシークなどが活躍した。

ゴセック

 当時激動の時代を迎えたフランスではネーデルラント出身のフランソワ=ジョセフ・ゴセック、リエージュ出身でパリで活躍したアンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ、オーストリア出身のイグナツ・プライエルなどがいた。

パイジエッロ
チマローザ

 イタリアではヴェネツィア出身のベートーヴェンに作曲を教えた可能性があるアンドレア・ルケージ、チェコ出身でイタリアで活躍したオペラ作曲家ヨゼフ・ミスリヴェチェク、ナポリ出身で半分シリアスな「オペラ・セミセリア」の作曲家として名声を博しロシアやフランスの宮廷に招かれた巨匠ジョヴァンニ・パイジエッロ、『秘密の結婚』などを書きオペラ・ブッファの代表者となったナポリ出身の巨匠ドメニコ・チマローザなどが活躍した。


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