非二元の基礎⇨二元論のサーンキヤ哲学による解脱理論とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」
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非二元の基礎⇨二元論のサーンキヤ哲学による解脱理論とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」
サーンキヤ哲学のこと、覚えているかな?
「見るもの」と「見られるもの」の二元論だったよね。
見るものが、プルシャ(真我・純粋意識)で、見られるものが、プラクリティ(対象・根源物質)で、プルシャに見られることで、プラクリティが展開して、万物・世界がうまれるという考え方だったよね。
たしか、プルシャとプラクリティは、結合してるんだったよね?
そうなんだけど、プルシャとプラクリティが結合している状態のことを、無明(=無知)というんだ。
なんで、無明・無知なの?
踊り子と観客・映画と鑑賞者のたとえ。
よく、インドでは、踊り子と観客というたとえを使うんだけど、現代風に、映画と鑑賞者のたとえに置き換えてみよう。
映画が面白いと、のめり込んで、まるで、自分が映画の主人公みたいに思えるよね。
ホラー映画だったら、主人公が襲われるシーンで、まるで、自分が襲われているように感じて、恐怖するでしょ。
うんうんそうだね。
それと同じで、ボクらは、本来、見られるもの=プラクリティである心や身体ばかりにのめり込んで、一喜一憂するわけじゃん。見るもの=プルシャが真我=本当の私なのに。
そうだね。自分がブ男とかブスとか言われたら、心を痛めるよね。
自分は映画をみているだけの鑑賞者だと知ったら?また、何度も同じ映画を見たら?
映画=見られるものと、真我・本当の自分=見るものが違うことに気づくよね。また、映画に習熟し、いわば真我を自覚するわけじゃん。正しい知識を得るわけじゃん。
それが、無明・無知が無くなった状態なんだ。見るものは、私はすでに見終えた、見られるものは、私はすでに見られたといって、活動停止する。もはや、結合していても、何も創造しない。
サーンキヤ哲学における解脱理論。
とりあえず、無明の状態がなくなる=プルシャとプラクリティとの結合の動機がなくなるわけじゃん。
結合があるうちは・・・??
何度死んでも、プルシャとプラクリティとの結合が解けないから、輪廻をくりかえすんだ。
結合の動機がなくなると?
しばらくは、空のろくろが回るように、身体が維持されるが、いずれなくなって、プルシャとプラクリティの結合が解け、輪廻から解放される。これが解脱だ。
サーンキヤ哲学のよいところ。
たとえば、老い、病気、など、「現実」には、様々な問題があるけれども、それらと距離を置くことができ、なにごとにも深刻にならずにすむんだ。
いわば、映画の鑑賞者だと知り、映画とは距離を置けるがごとくだね。いいね。二元論のサーンキヤ哲学も。
でしょー?もう、これで十分じゃない?とも思える。しかし、それを批判し、乗り越えるものとして、ノンデュアリティ(非二元)のウパニシャッド思想、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論(ふにいちげんろん))が登場するんだよね。
さて、どんな思想なんだろうね。興味が湧いてきたな!
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