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"形式知" と "暗黙知"

私の妻は学のある人で料理に精通し、分子栄養学や日本漢方に造詣が深い。
お陰で私は日々食生活に恵まれ、健康維持の全てをその恩恵に与っている。

彼女は現代医療で全く解決せず、不毛な手術に至るような自らの疾患を、
分子栄養学と日本漢方を用いて、殆ど即日の内に解決の糸口を掴んでいる。

漢方薬により 一撃で症状が止まり、諸機能が戻った。

日本漢方を創造した吉益東洞について、寺澤捷年博士の著書に詳細がある。

"吉益東洞の研究" という名著である。

東洞は中国医学が培ってきた陰陽五行論を全面的に否定し、
臨床実践を根拠とした実存的経験に基づく方法論を提唱した。

梅毒で死んでいく人々に、陰陽五行論は無力だったのである。

現在、広く臨床の場で用いられている漢方はこの東洞の医論を基調とする。

歴史的に見ると、このような臨床実践的な医療は後漢の張仲景に見られ、
その詳述が、西暦二百十年頃に成立した "傷寒論" であるという。

だが、その画期的な方法論は、その後、医界の本流となる事はなかった。
その最大の要因は、論理的に説明する言語を持たなかったからだという。

" ところで、論理的に言葉で説明できることが果たして真実であろうか "

と、医学博士 寺澤捷年は言う。

寺澤捷年博士は、野中郁次郎が "暗黙知" と "形式知" を明快に論じ、
言語的論理の積み上げだけでは決して高度な"暗黙知"は獲得できない
とした主張を支持し、形式知と暗黙知に関して深い考察を述べている。

思弁、憶測を持たずに、実体に則した観察を根拠とし、
本当に患者を治す事の出来る医者でなければならない。

吉益東洞は中国伝統医学の思弁的要素を全て排除した医論を展開し、
伝統的思考を金科玉条と信じる医者や市井の人々に衝撃と恐怖を与えた。

時には侮蔑の言葉を浴びせられた。

だが 東洞のこの医論が現在においても日本漢方の礎となっているのである。

吉益東洞の京都時代における貧困と困窮は、
夕食を取れば朝の糧はない、という状況だった。

人形作りの内職をして糧を得なければならなかった。
そんな中、仕官の話が浮上しても彼はそれを固辞した。

東洞は七日絶食して少名彦の廟に詣で、廟の神に告げた。


  " 今や貧窮して、命もおぼつかない。

  私の道が間違っているから、天は、貧を以って罰するのか。

  人の為に行い、その成果はあれど、未だ無成果だった事はない。
  たとえ飢え、死んでも、この道を変えるつもりはない。

  私の神は 我が国の医祖。

  どうか、ご覧になって欲しい。

  この道が間違っているなら、私を殺してくれ。
  間違いを推して行えば、その時には必ず多くの人を害する事になる。

  私一人を殺し、多くの人を救って欲しい。

  それが私の固い願いです "


当時の医界の常識では、医者は不治、難治の患者と判れば治療を辞退し、
自身の名誉に無駄に傷を付けないのが習わしであり、医者の本意だった。

だが、吉益東洞はこの常識に反旗を翻した。

全ての医者が見放した重症患者の十人に一人でも救えれば本望とした。

勇猛果敢に難病に挑戦し続けた。

吉益東洞が詣でた廟は、西本願寺の北方に現存する"五条天神社"だという。
断食の行を終えて廟に詣で、帰宅すると旧知の商人が資金援助を申し出た。

東洞は愕然とし、

「私はこれを償う事ができないから受け取れない」

と、固辞した。

商人は勃然として色を作し、膝を進めて言った。

「私が何の償いを望むというのか。
 今、この金を奉ずるのは、先生の為ではありません。天下万民の為です」

東洞はその言葉に打たれ、拝して金を受けた。

人形作りを内職としながら臨床草稿を纏め上げた、
この不遇の七年間の努力が、彼を世に出す事になる。

ありのままの観察と五感を用いる徹底した臨床に基づく実証主義。
吉益東洞にとっては傷寒論すら玉石混同の一資料でしかなかった。

このような姿勢で運命学の古典と向き合う人こそ、私は日本人的だと思う。だからこそ 漢方であれ、運命学であれ、日本で異例の切れ味を持つに至る。

”言語的論理の積み上げだけでは決して高度な "暗黙知" は獲得できない”

なんという美しさだろう。

いつの時代にも、そういう人がいることを私は疑わない。

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