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たそがれに寄せて(終章)「あげはの蝶」
七月三一日、私を可愛がってくれた親戚の長老、U伯父が九二才で急逝した。八月一日、通夜から戻ると、息子が「病院から電話があった」と言う。母の容体が暫く前から日ごとに悪くなっていることは十分承知していた。
まさか、黒い服で病院に駆けつけるわけにも行かぬので、軽装に着替えてから息子の運転で病院に行った。母は正に虫の息である。
平成六年八月二日の早暁、母は逝った。
享年八十四才。
二日の日
たそがれに寄せて(31)「池のほとりで」
本家のSさんは鯉がご自慢だった。裏山から清水を引き込んだ前庭の宏大な池を悠々と泳ぐ鯉は本当に見事だった。そのSさんが大晦日の晩、心臓発作で突然亡くなってしまった。享年七十歳。
翌年の盆の入りの日、西駒ヶ岳に陽が沈み、空が黄金色から茜色に変わる頃、温厚だったSさんの人柄を偲んで郵便局の昔の仲間たちが三三、五五と集まって来た。
迎え火も焚き終わり、供養の膳の用意が出来るまで、池のほとりでおし
たそがれに寄せて(30)「マルソー」
Sは私がH社に入った時の同期生である。東京工大出身の秀才だが、童顔でいつもニコニコしていて、さわやかな感じの男だった。彼のそばに居るとモーツアルトの室内楽を聞いているようなやすらぎを覚えた。
Sとは特別に親しかったわけではない。技術屋と事務屋のちがいもあって同じ職場で働いたこともない。大阪から東京の本社に転勤して来た初日、昼休みの少し前にSがふらりと現れ私を昼食に誘った。人間とは奇妙なもので
たそがれに寄せて(28)「フェスティバルの頃」
今日、東京や大阪のような大都会では毎晩のように内外の有名な演奏家やオーケストラがコンサートを開き、年間を通じて音楽フェスティバルをやっているような感がある。
こうした風潮のパイオニアとなったのが大阪の国際フェスティバルで、その第一回が開催されたのが奇しくも私がサラリーマン一年生として大阪に赴任した昭和三三年だった。
鰊(にしん)のことを春告魚とも書くが、このフェスティバルは、私にとって文
たそがれに寄せて(27)「間奏曲(たそがれの東京タワー)」
高校三年の頃、学校の帰りに同級のNと一緒に英語塾に通った。日本もまだ貧しい頃だったから、冷暖房なし、三人掛けの粗末な椅子と机、教壇と黒板が教室のすべてだった。どこに誰が座ろうが自由なのだが、面白いもので、開講後一ヶ月もすると、なんとなく各人の座る席が定まってしまう。
Nと私は三列ある机の真ん中の列で前から二番目の席に陣取ることになった。そして、私は三人掛けの机の中央、Nは左はしという順序が出