助六

父の遺稿「たそがれに寄せて」を掲載しています

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最近の記事

たそがれに寄せて(あとがきにかえて)「父との別れ」

 父が亡くなったのは平成六年十二月十一日。五十九才の誕生日の翌日、生母の死から四ヶ月後である。  この日、両親は翌日から何度目かのウィーン旅行に出かける予定で、夕食後、母はその荷造りに勤しんでいた。  当時、父は失意の中にいた。可愛がってきたWさんがコッソリ別会社を作り、父が手がけてきた仕事のほとんどを奪ってしまったのだ。父は還暦を控えてWさんに仕事を譲る気でいたから、この裏切りにはひどく傷ついた。  そのためか父は夕食どきになるとあおるようにウイスキーを流し込み、毎夜

    • たそがれに寄せて(終章)「あげはの蝶」

       七月三一日、私を可愛がってくれた親戚の長老、U伯父が九二才で急逝した。八月一日、通夜から戻ると、息子が「病院から電話があった」と言う。母の容体が暫く前から日ごとに悪くなっていることは十分承知していた。  まさか、黒い服で病院に駆けつけるわけにも行かぬので、軽装に着替えてから息子の運転で病院に行った。母は正に虫の息である。  平成六年八月二日の早暁、母は逝った。  享年八十四才。  二日の日は、ほぼ丸一日U伯父の葬儀に付き合い、三日の朝、妻と二人で火葬場に行き、荼毘に付

      • たそがれに寄せて(38)「邂逅」

         人生を一応八十年として、これを一日二十四時間に振り分けると、午前零時誕生、六時で二十才、青春。正午で四十才、働き盛りである。午後九時で六十才、という勘定になる。  平成三年十二月十日、私は五十六才の誕生日を迎えた。人生時計にすれば間もなく午後六時を迎える。夜のとばりが降り切るまでには少し間があるが、美しい幕切れの演出を考えてもおかしくない年齢になってしまった。  こんな思いでこの一年を振り返って見た。  息子は希望通りの会社に就職が決まった。妻は親しい友たちと初めての

        • たそがれに寄せて(37)「伊那の若い衆」

           この夏もゴーザ川のほとりのHさん宅にお邪魔した。妻も息子も、Hさんと奥さんのSさんとはすっかりお馴染みになってしまったようで嬉しい。  なにせ、わが家があの開墾地に入植して以来の付き合いだから、その長さは四十年をとっくに越えている。最初、Hさんは父と親しくなり、夜になると時たまにゴーザ川の丸木橋を渡ってはわが家に遊びに来た。年齢からすれば私と父との真中くらいで一、二年前に古希を祝った筈である。父が亡くなると自然とその付き合いを私が引き継いだよう形となり今日に至ってしまった

        たそがれに寄せて(あとがきにかえて)「父との別れ」

          たそがれに寄せて(36)「クレッシェンド」

           旧のお盆の少し前、I町に戻り例によってT君を訪ねた。西瓜の収穫期は峠を越したようだが、それでも見事な大きな玉が軒先にゴロゴロしていた。奥さんが裏の井戸で程よく冷やした西瓜を持って現れた。 「これは今しがた取った玉なんです。白い皮のところが厚いでしょう。これが都会に出荷されて数日たって皆さんのお口に入る頃には赤いところと甘みが徐々に表の方にしみだして白い皮のところが薄くなり、味も薄まってしまうんです。ですから、こんな白い皮の厚い西瓜こそ本当に美味いんです。何のお構いも出来ま

          たそがれに寄せて(36)「クレッシェンド」

          たそがれに寄せて(35)「とりさんの死」

           晩年のとりさんは 東京に出て来ることは滅多になくなった。私も結婚して子供が出来、結構忙しかったし、初めて家庭生活の楽しさを心ゆくまで味わっていた。  それでも年に一回くらい、とりさんを訪ねた。時として妻や息子も連れて行った。お互いに会うことは嬉しかったが、昔のような切なさを伴った嬉しさではなかった。  とりさんは孫たちを溺愛していた。血はつながっていなくとも孫というのは本当に可愛いものらしい。二人とも口にこそ出して言わなかったが、親離れ、子離れが急速に進んで行くのが感じ

          たそがれに寄せて(35)「とりさんの死」

          たそがれに寄せて(34)「間奏曲(たそがれの有明海)」

           Gは大学の頃、オーケストラのコンサートマスターとして勇名を馳せていた。単純でおっちょこちょいな面もあったが、それがまた彼の人気のもとにもなっていた。  卒業して三年、東京の大企業で働いてから、そこで知り合った女性を伴なって家業の食品問屋を継ぐべく郷里のS市に戻って行った。  数年前、小学生だった息子がどうしてもプルートレインに乗りたいというので、丁度いい機会だ、九州旅行を兼ねてGを訪ねて見ることにした。  Gは「おお、よく来たな、よく来たな」と昔と少しも変わらぬ些かオ

          たそがれに寄せて(34)「間奏曲(たそがれの有明海)」

          たそがれに寄せて(33)「シルバー・フォックス〜その2」

           その後もシルバーさんは年に一度か二度のペースで日本にやって来た。一年の三分の一は洋上で暮らしている、という感じだった。  ある時、私たちは内緒でホノルル・横浜間の船室を予約した。ハワイでシルバーさんを不意打ちし「いつもは横浜で出迎えますが、今回はホノルルまで出迎えに来ました。」と言うと彼は狂喜し、早速なじみのパーサーに交渉して同じテーブルに席を作らせた上、私たちが払い込んだ料金の数段上の船室を取ってくれた。この旅も楽しかった。  お気に入りのプレジデントラインが客船部門

          たそがれに寄せて(33)「シルバー・フォックス〜その2」

          たそがれに寄せて(32)「シルバー・フォックス〜その1」

           妻は二度も流産し、しかもその後、子宮筋腫の診断が出てそのかなりの部分を切り取られ、子供を作るのは、かなりむずかしいことになってしまった。妻は口にこそ出して言わなかったが、かなり落ち込んだようだった。  こんな時には誰だって気晴らしのひとつもしたくなる。 「今度の連休にはホンコンに遊びに行こうや」と妻に言い、アメリカ船ルーズベルト号の客室を予約した。  初めての海外旅行、二週間の船の旅である。若い時、船で世界一周をしたことのある父から、船旅の素晴らしさを度々聞かされてい

          たそがれに寄せて(32)「シルバー・フォックス〜その1」

          たそがれに寄せて(31)「池のほとりで」

           本家のSさんは鯉がご自慢だった。裏山から清水を引き込んだ前庭の宏大な池を悠々と泳ぐ鯉は本当に見事だった。そのSさんが大晦日の晩、心臓発作で突然亡くなってしまった。享年七十歳。  翌年の盆の入りの日、西駒ヶ岳に陽が沈み、空が黄金色から茜色に変わる頃、温厚だったSさんの人柄を偲んで郵便局の昔の仲間たちが三三、五五と集まって来た。  迎え火も焚き終わり、供養の膳の用意が出来るまで、池のほとりでおしゃべりをしていた数人の中の一人が突然、「水が濁っているじゃねえけ。これじゃ局長さ

          たそがれに寄せて(31)「池のほとりで」

          たそがれに寄せて(30)「マルソー」

           Sは私がH社に入った時の同期生である。東京工大出身の秀才だが、童顔でいつもニコニコしていて、さわやかな感じの男だった。彼のそばに居るとモーツアルトの室内楽を聞いているようなやすらぎを覚えた。  Sとは特別に親しかったわけではない。技術屋と事務屋のちがいもあって同じ職場で働いたこともない。大阪から東京の本社に転勤して来た初日、昼休みの少し前にSがふらりと現れ私を昼食に誘った。人間とは奇妙なもので、変なことが心配の種になる。実は、この日の昼食をどうしたものかと思い悩んでいた。

          たそがれに寄せて(30)「マルソー」

          たそがれに寄せて(29)「間奏曲(たそがれの名古屋駅)」

           Iは一匹狼の情報屋だった。立場上、大会社の社員では入りにくいような場所に出掛けては、業界情報を探って色々の企業に売るのが商売である。仲々精度の良い情報を持って来るので会社の調査部ではよく利用した。  といって、産業スパイという程の悪どい商売ではない。Iは色白の長身で少しヤクザッぽいところもあったが、根は善人だった。大の子煩悩で、千葉市から少し入った所に小さな家を持ち、小さな車も買って、休みの日には小さな坊やを脇に乗せて釣りに行くのがなによりの楽しみだった。そのIが突然蒸発

          たそがれに寄せて(29)「間奏曲(たそがれの名古屋駅)」

          たそがれに寄せて(28)「フェスティバルの頃」

           今日、東京や大阪のような大都会では毎晩のように内外の有名な演奏家やオーケストラがコンサートを開き、年間を通じて音楽フェスティバルをやっているような感がある。  こうした風潮のパイオニアとなったのが大阪の国際フェスティバルで、その第一回が開催されたのが奇しくも私がサラリーマン一年生として大阪に赴任した昭和三三年だった。  鰊(にしん)のことを春告魚とも書くが、このフェスティバルは、私にとって文字通り春を告げる胸のわくわくするような行事で大阪時代の青春のかなり大きな部分を占

          たそがれに寄せて(28)「フェスティバルの頃」

          たそがれに寄せて(27)「間奏曲(たそがれの東京タワー)」

           高校三年の頃、学校の帰りに同級のNと一緒に英語塾に通った。日本もまだ貧しい頃だったから、冷暖房なし、三人掛けの粗末な椅子と机、教壇と黒板が教室のすべてだった。どこに誰が座ろうが自由なのだが、面白いもので、開講後一ヶ月もすると、なんとなく各人の座る席が定まってしまう。  Nと私は三列ある机の真ん中の列で前から二番目の席に陣取ることになった。そして、私は三人掛けの机の中央、Nは左はしという順序が出来上がった。  受験時代を「灰色の青春」と称することもあるが、我々にとってはそ

          たそがれに寄せて(27)「間奏曲(たそがれの東京タワー)」

          たそがれに寄せて(26)「はつ恋」

           父を拝み倒して買ってもらった小さなカメラが中学時代の私の宝物だった。同じ中学に通っていた一学年下のSと一緒に押し入れの中に入っては現像や焼きつけに熱中した。  Sには一才上の、つまり私と同い年のY子という姉がいて郊外の私立の学校に通っていた。なんの拍子か分からないが、この子が突然好きになってしまった。毎日悶々として過ごし、もともと好きでなかった勉強がますます手につかなくなってしまった。  彼女は毎日わが家の前を通って駅に向かい、時折買いもの籠をさげてはお使いに行った。当

          たそがれに寄せて(26)「はつ恋」

          たそがれに寄せて(25)「残骸」

           東京に戻ると私鉄で五駅ほど先の中学に通うようになった。T駅で降りて線路と直角に交差するゆるやかな坂の途中には高名なS画伯のアトリエがあり、そこを過ぎて暫くすると、平坦で広々とした畑地となり、樹齢数百年と思われる防風林に囲まれた農家が点在していた。今でも武蔵野を散策していると、ごく稀ではあるが、こうした昔ながらの農家を見掛けることがある。  道はやがて玉川上水に突き当たり、これに沿って十分ほど歩くと学校に着く。この上水は今では地下のパイプの中を流れているらしいが、当時は幅三

          たそがれに寄せて(25)「残骸」