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たそがれに寄せて(25)「残骸」

 東京に戻ると私鉄で五駅ほど先の中学に通うようになった。T駅で降りて線路と直角に交差するゆるやかな坂の途中には高名なS画伯のアトリエがあり、そこを過ぎて暫くすると、平坦で広々とした畑地となり、樹齢数百年と思われる防風林に囲まれた農家が点在していた。今でも武蔵野を散策していると、ごく稀ではあるが、こうした昔ながらの農家を見掛けることがある。

 道はやがて玉川上水に突き当たり、これに沿って十分ほど歩くと学校に着く。この上水は今では地下のパイプの中を流れているらしいが、当時は幅三、四メートル、深さニメートル位の川であった。急流のため長年の間に底がえぐられて、川の断面は馬蹄型磁石のような形となり、川幅は水面よりも一メートルあまり底の方が広がっているとのことだった。そのため、この流れに落ち込むと容易なことでは浮かび上がれないそうな。事実、小説家の太宰治はここで入水心中をしている。

 学校の裏手には川の中に鉄柵が設けられており、粗大ゴミが引っかかるようになっている。柵の脇にある番小屋の爺さんが時折出て来ては鉄製の大きな熊手でゴミを掬い出していた。ここに時たま水死体が引っかかることがある。そんな時は怖いもの見たさに覗きに行ったものだ。もっとも、水ぶくれをした土左衛門を見た時などは二、三日水道の水が飲めなくなってしまった。

 前置きが長くなった。この上水に沿った農家の子、J君と友だちになった。ある日、彼のところに遊びに行っている時、まったく偶然に、おかしなものを発見してしまった。彼の家の裏手にある防風林の藪の中に、それこそ隠すようににして飛行機の翼が土中に埋められていて、その先端には米軍のマークがついていた。

 「誰にも言うなよ」と念を押してからJ君はこんな話を始めた戦争の末期になるとこのあたりにもB29が飛来し、時たま爆弾を落として行った。もっとも柔らかい畑地に落ちた爆弾は不発になることが多く、たまにさく裂しても防風林があるお陰で被害を被ることは殆どなかったという。

 ある時、高射砲の弾が命中した飛行機が畑の中に不時着し、中からは数人の米軍兵が飛び出してきた。その直後、機体は爆発炎上した。駆けつけた自警団の人達はこの兵士達を捕らえ、スコップやこん棒で撲殺し、遺体を雑木林の中に埋めた。中には女性も含まれていたという。

 戦争が終わり、米軍が進駐して来て戦争犯罪人の探索が始まるとこの事件に加担した人達 は恐ろしくなり、飛行機の残骸を土中に埋めた。私がたまたま見つけたのはどうしても埋め切れなかった翼の一部だったのだ。J君の話しぶりからすると、彼の家の誰かもこの事件に関わっていた様子だった。

 卒業後、学校の周辺には行ってない。ただ、このあたりに住む友人の話だと宅地造成が進み、武蔵野の面影を伝えるものは殆どなくなってしまったという。あの翼の残骸も何時の間にか片づけられ、この事件の加担者や目撃者の脳裏からも、あの忌まわしい思い出は消え去ってしまったのであろうか。

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