見出し画像

たそがれに寄せて(36)「クレッシェンド」

 旧のお盆の少し前、I町に戻り例によってT君を訪ねた。西瓜の収穫期は峠を越したようだが、それでも見事な大きな玉が軒先にゴロゴロしていた。奥さんが裏の井戸で程よく冷やした西瓜を持って現れた。

「これは今しがた取った玉なんです。白い皮のところが厚いでしょう。これが都会に出荷されて数日たって皆さんのお口に入る頃には赤いところと甘みが徐々に表の方にしみだして白い皮のところが薄くなり、味も薄まってしまうんです。ですから、こんな白い皮の厚い西瓜こそ本当に美味いんです。何のお構いも出来ませんが、この真ん中の赤いところだけ食べて行ってください」

 奥さんのこんな話を聞きながら西瓜にかぶりついている間に座を外したT君が絵葉書のようなものを持って戻って来た。

 T君が言った。「小学校の頃の同級生、Sを覚えているか?」覚えているどころじゃない。 Sとは無二の親友だった。あの頃、二人は野球に夢中になっていて、休み時間になると、寸暇を惜しんでキャッチボールをした。Sが投手、私が捕手の役回りだった。Sは変化球に凝っていて色々工夫をするのは良いのだが、これが大暴投の原因となり、しゅっちゅう球拾いをさせられたものだ。

 その頃のI町では小学校と中学校とが同居していて、バックネットの張ってあるグラウンドの中央部は中学校の高学年に占領されて小学生には使わせて貰えない。木造校舎を背にしてキャッチボールをしてもよいのだが、暴投癖のあるSのことだから窓ガラスでも割られたらことである。仕方なく私が石垣を背にボールを受けた。その頃のスポンジボールは実に粗悪で投球が何回も石垣を直撃するとポカリと割れ、使いものにならなくなる。

 当時は終戦後の混乱期で貨幣はあまり当てにならず、物々交換が盛んだった。町には物々交換所という店があって、人々は自分が手に入れたい物と提供出来る物資の交換レートを申し入れるとそれが店頭に表示される。例えば、砂糖一キロに対して米何升といった具合である。商談が成立すると店の主人が何がしかの口銭を取った。

 ボールが割れるとSは家から煙草をくすね出して来た。はっきりは覚えていないが、煙草が三箱でボールが一個位のレートだったような気がする。交換所など子供の近寄るような場所ではないし、盗み出したものを持って行くのだから大層後ろめたい。私たちは日が暮れるのを待って「ごめんなんしょ」と。恐る恐る交換所のガラス戸を開けて、ここの主人が胡散くさそうな顔つきでボールを渡してくれるやいなや、脱兎のごとく店を飛び出して来たものだ。

 T君が見せてくれた絵葉書の表には石の抽象彫刻の写真が印刷されており、裏にはSの略歴と東京での個展の案内が刷られていた。彼と最後に会ったのは高校時代であった。一年浪人して慶応の経済学部に入ったことは風の便りに聞いてはいたがその後の音信は絶えてしまった。絵葉書に印刷された略歴によれば、大学卒業後、計量経済学を修めるべくカナダに留学したが、ここで方向転換、彫刻の道に入り現在はモントリオールからずっと奥に入った田舎に住んでいるという。既にカナダやアメリカでいくつかの賞も取り、カナダ総督府の仕事も手がけたそうな。あのSが芸術家として一家をなしていようとは知らなかった。

「俺は忙しくて東京まで行くのは無理だが、二十一日の個展のオープニングには是非行ってやってくれよ」T君は案内状を私に手渡しながら言った。

 この日が来るのを指折り数えるようにして銀座の画廊に出かけた。私はSの前に立ち 「俺のこと、覚えてる?」 と尋ねた。何せ、あれから四十年近い月日が経っているのだ。私は少し不安だった。するとSは「なんだ、Kじゃないか。来てくれたのか!」と破顔一笑した。私たちはきのうの夕方、グラウンドで別れて、今日また、ここで会ったような気分になった。

 しかし、Sとて個展の主催者ともなればそうそう私の相手ばかりしていられない。彼がこちらに滞在中にゆっくり会いたいものだな、ということなってやっとお互いの都合がついたのは彼がカナダに戻る二日前だった。夕方、画廊に迎えに行くとSはカナダの自然を背景に撮影した自作の石の彫刻の写真集をくれた。

「良い記念になるから、一筆したためてくれよ」と頼むとSはアルバムの見開きのところに「二人ともプロ野球の選手にはなれなくて。K様。Sより」とさらさらと書き、少年時代と少しも変わらぬ悪戯っぽい目で笑った。

「お前が東京に帰った途端に俺の野球熱も冷めてしまってな」とSは言った。事情は私の方も似たようなものだった。

 行きつけのバーに彼を誘った。ビルの十四階にあり、丸の内界隈から皇居の方が一望のもとに見渡せる。「東京の夜景は意外ときれいなんだな」とSはこの場所が気に入ったようだった。久しぶりの再会である。話は尽きない。

「俺が奨学金を貰って留学した時は両親共に鼻高々さ。やがては日本に戻り母校の教授になるものと決め込んでいた。だから、俺が途中から脱線した時の嘆きようといったらなかった」「お前は昔から逸れ球の名人だったからな」と私。

「青い目の娘を女房にすると書き送った時には、両親からは別々に手紙が来た。オヤジの手紙には仲よくらせ、と書いてあった。諦めの心境だったのだろう。オフクロのには、カナダにだって日本人の女の子が居ないわけじゃないだろうに、と認めてあった。要するに反対ということさ。やっと俺にも少しづつ芽が出て来て、あちらの新聞や雑誌にも作品のことなど紹介されるようになった。お詫びのつもりで両親のところにそんな記事を送った。ある程度わかってはくれたとは思うがね。今回日本に戻って来た折り、M新聞の松本支局にいる高校時代の同窓生のYという奴がローカル版に顔写真入りで郷土の生んだ国際的な彫刻家、と俺のことを持ち上げて記事にしたもんだからこの間I町に戻ったら、急拠小学校の同窓会は開かれるわ、町の文化なんとか委員会には招待されるわ、しまいには町長のところに表敬訪問をさせられるわ、の騒ぎさ。でもな、オフクロが何十年ぶりかでやっと俺のことを信用してくれた。嬉しかったよ。オヤジが少し前に死んでしまったのは残念だったが」

 こんなことを淡々と語るS。かの地の風雪に耐えて来たSの顔は、芸術家というより、淳朴な農夫のようだった。いい顔になったな、と羨ましく思った。ここのバーの閉店時間の十時はアットいう間に来てしまい、止宿先の目黒まで送ると、Sはタクシーから降り立った。

「ジャー!」「ジャーな!」私たちはろくに握手もせず、明日の朝になれば教室でまた会えるような調子で別れた。

「君子の交わるは淡きこと水の如し、か」酔眼朦朧の中で私は少しばかり君子になったような気分になった。二日後、Sは夫人と共にカナダの大自然の中に戻って行った。

※ここに登場するSとは、斉藤智(さとし) 君のこと。池袋の東京芸術劇場の前の広場には、クレッシェンドと題する彼の雄渾な作品が天を突くような勢いで立っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?