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たそがれに寄せて(34)「間奏曲(たそがれの有明海)」

 Gは大学の頃、オーケストラのコンサートマスターとして勇名を馳せていた。単純でおっちょこちょいな面もあったが、それがまた彼の人気のもとにもなっていた。

 卒業して三年、東京の大企業で働いてから、そこで知り合った女性を伴なって家業の食品問屋を継ぐべく郷里のS市に戻って行った。

 数年前、小学生だった息子がどうしてもプルートレインに乗りたいというので、丁度いい機会だ、九州旅行を兼ねてGを訪ねて見ることにした。

 Gは「おお、よく来たな、よく来たな」と昔と少しも変わらぬ些かオーバーなジェスチャーと顔一杯の笑顔で駅頭に出迎えてくれ、我々の間にあった二十年あまりの空白は一瞬にして吹き飛んだ。

 「ちょっと、店に寄ってから名所見物に出掛けるから」と彼の車は市内の問屋街らしき一角に入って行き、G食品株式会社という古びた看板の出ている店の前に止まった。Gがクラクションを鳴らすと、店員と覚しき女性が車の側に走りより、封簡を彼に手渡した。「歓迎用軍資金だ」彼は封筒を胸のポケットにねじ込むと車を発進させた。

 名所案内のほか、昼は料亭で、夜は市外の自宅で奥さんの手料理と、Gは心から歓待してくれた。夕食の後は彼のバイオリン、奥さんのピアノ、上の娘さんのチェロで自慢のホームアンサンブルまで披露してくれた。

 商売の方は大した発展もなかったようだが、三人の素直そうな子供さんにも恵まれ何よりだったな、と私は心底からそう思った。「君、よく来てくれたね」という英国民謡の大合唱を背に、Gの家を辞しホテルに戻った時は快い疲労感でくたくただった。

 「私ね、最初、お金を渡しに車まで来たのがGさんの奥さんかと思っちゃった。なんとなく馴れ馴れしい感じがしたんだもの」という妻のおしゃべりを遥か彼方の潮騒のように聞きながら私は睡魔に身を委ねた。

 それから二年ほどしたある朝、たしか月曜日だったと思うが、Gの奥さんから電話があり、Gが先週末車で家を出たまま全く行く方がつかめないという。ひょっとして、学生時代の仲間が大勢いる東京にでもふらりと行ったのではないかと思って電話したと言う。さっそく彼と付き合いのあった連中に問い合せてみたが手がかりはなかった。私は彼女に電話を入れ、こちらでの経過を報告すると同時にあまり悲観的にならないようにと慰めた。その時、彼女はさも言いにくそうに「実は主人が家を出た時、女と一緒でした」と詳しい事情を漏らした。

 Gはハイミスの女店員と大分前から出来ていたらしかったが、奥さんはうかつにも気がつかなかった。灯台もと暗し、で敵があまり身近かにいるとかえって気がつかないものである。ただ、私は妻が以前に言ったひと言を思い出し、女の直感に恐れ入った。

 その日、Gは店の二階の倉庫代わりに使っている和室に女店員を誘い情事を楽しんでいる最中に、めったに二階に来ることのない母親が不意に入っ来て、ことが露見してしまった。その瞬間から彼の頭はパニックに陥った。彼はいい年になってからも父親コンプレックスが抜けず、それが原因で奥さんにやり込められたこともあったらしい。

 それで、この件が父親にバレた時のことを想像すると居ても立っても居られなくなり、彼は女を隣に乗せて車で店を飛び出してしまった。ここ迄が奥さんが電話を通して語ったことである。

 その後の細かい経緯は省くとして、おおまかな成り行きだけを記しておこう。
 
 彼の失除の一ヶ月後、店は倒産、そのあと始末が一段落したところで奥さんは子供達を連れて実家に戻った。そして、Gの方はと言えば…行き先に当てがあるわけでなく、車は南に向かって、やみくもに突っ走って行った。女は涙ぐみながら、「どうしたらいいのよ、 どこに行ったらいいのよ 」を繰り返すばかりであった。こうした状態がずっと続いたならば、Gはどこかの岸壁から車もろともダイビングして一巻の終わりとなった口算はきわめて大きかったと思う。

 その時、奇跡が起こった。彼は何の気なしにカーラジオのスイッチを入れた。モーツアルトのバイオリンソナタのおだやかなアンダンテが流れ出て来た。それは、彼が長い間忘れていた世界からやって来た妙なる調べであった。折から有明海は日没後の光芒をかすかにたたえて美しく光り、それは正にモーツアルトの音楽にふさわしい風景だった。

 Gは頭の中の霧が晴れ上がって行くような感じがした。そして次の瞬間、彼はずっと以前に見たテレビ番組のシーンを不意に思いだした。それは雪深い北陸の山里に独り住んで、修行僧のような生活をしながらバイオリンを制作している工匠のドキュメンタリーだった。「そうだ、あすこに行こう」彼の車はUターンするなり一路北に向かって走り去った。

 Gは北陸でその工匠に弟子入りして、昼間はバイオリン作りに精を出し、夜は炉端焼きのレジで働き、三年後、女を連れてS市に戻り小さな工房を作った。素質と努力の相乗作用が大きく実ったのであろう、彼の作品は今や玄人筋からも注目を浴びて来ている。彼が名匠と呼ばれる人達の仲間入りするのもそんなに遠い先のことではなさそうだ。

 店は倒産、一家は離散、とGの惹き起こした事件はいいことなしだし、 世間の常識からすれば彼はとんでもない奴である。しかし、私は少し異なった解釈をしている。

 あのままの生活を送っていれば、Gの一生は幸せではあるが些か退屈で平凡なものになっていたに違いないし、自分の天分に気付くこともなかったであろう。しかし、彼はストラデバリかアマーティのような名匠の生まれかわりであって、バイオリンを作るべき運命を背負ってこの世に生を享けたのではないか。それを本人に気づかせるために彼の背後霊か守護霊が荒療治を仕掛けたような気がしてならない。

 いつか初夏のたそがれ時に、彼の楽器の織りなす妙なる調べに思い切りひたってみたいと思う。



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