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たそがれに寄せて(29)「間奏曲(たそがれの名古屋駅)」

 Iは一匹狼の情報屋だった。立場上、大会社の社員では入りにくいような場所に出掛けては、業界情報を探って色々の企業に売るのが商売である。仲々精度の良い情報を持って来るので会社の調査部ではよく利用した。

 といって、産業スパイという程の悪どい商売ではない。Iは色白の長身で少しヤクザッぽいところもあったが、根は善人だった。大の子煩悩で、千葉市から少し入った所に小さな家を持ち、小さな車も買って、休みの日には小さな坊やを脇に乗せて釣りに行くのがなによりの楽しみだった。そのIが突然蒸発してしまった。

 Iの事務所、といっても何人かの一匹狼がビルの一室を借り、各人そこに机を持ち、共同で電話番の女の子を雇うという、いわゆる貸机事務
所である。そこに何回電話をしても居所がつかめない。留守番の女の子にもまったく見当がつかないという。

 仕事は結構はやっていたようだし、そもそも元手いらずの商売だから倒産の心配もない。家庭だって彼が自慢するくらいだから、蒸発の原因になる筈がない。当初、我々も気掛かりだったが、いつしか I のことは忘れて、別の情報屋に仕事を出すようになっていた。

 一年あまりたって、そのIがひょっこり顔をみせた。「いやあ、お恥ずかしいのなんのって。あんたのことだから白状しますよ」とIは話し始めた。

 その日、Iは四日市にあるD化学に行き、当時としては大金の三百万を超す現ナマを集金して来た。手形や小切手だと証拠が残る可能性があるので情報屋に金を払う時は現ナマにするのが業界の常識である。

「松阪牛の上等なのを買ったから、すき焼きの用意をしておけよ。八時過ぎには帰れるよ」彼は明るい声で近鉄の駅から妻に電話した。その肝心の牛肉を網棚に置き忘れ、慌てて取りに行ったため、予定していた東京行きの「ひかり」に一分ちがいで乗り遅れてしまった。

 Iは煙草に火をつけ、所在なげに名古屋駅のホームかられ行く街の風景を眺めていた。「あから何年だろうか?五年、いや、七年?」彼の頭の中をK女のことが稲妻のようによぎった。

 以前、IにはK女という将来を誓いあった女性がいた。婚約した直後にK女は重症のネフローゼにかかり容体は悪化の一途を辿った。しまいには親が名古屋から出て来てIに言った。

「Iさん、あなたが娘を貰ってくれるというのもありがたいし、今まで必死に看病してくれたことについては感謝の念で一杯だ。しかし、医者の言うには、娘の命はもって五日か一週間とのことだ。親の気持ちとしては、家に連れ帰って最後を看取ってやりたい。Iさん、本当に申し訳ないが娘のことは、今、ここできっぱり諦めてほしい」 K女は寝台自動車に乗せられ、Iは涙ながらに見送った。

「そう、あれから七年だ。早いものだ。名古屋駅はいつも通過するだけで彼女のことを思い出すひまも無かったが、今日は乗り遅れたばっかりに思い出してしまった。ひょっとして霊が呼んだのかも知れないな。彼女の家は駅の裏手のマンションで、歩いて五分とかからない所だった。そうだ、これから行けば線香の一本もあげても次の列車には十分間に合う」

 Iは駅から飛び出し、家路を急ぐ人波をかきわけるようにしてK女の家をめざした。結婚申込みのため一回来ただけだったが道順ははっきり覚えていた。マンションのドアチャイムに応じて出て来たのは、K女その人だった。

 二人は絶句した。K女は名古屋に戻ってから数ヶ月、文字通り生と死の間を彷徨した。しかし、若さが勝ったのだろうか、徐々にではあるが、回復に向かった。それでも完全に健康を取り戻すまでには結局三年かかったという。そして、その間、彼女は風の便りにIが昔の同僚、R女と結婚したのを知りIのことを諦めた。

 その夜、二人は手に手をとりあって出奔した。「まさに愛欲のかぎりをつくしたんです。一年、いや、それ以上かな。あっちからこっち、こっちからあっち、安宿やら温泉マークを渡り歩いてね。とうとう財布の方が参っちまったんで東京に舞い戻って来たんです」

「だけど、奥さんと子供さんの方はどうしたのさ?」

「女房には家をやって別れることにして、その決着をつけるべく三者会談をするため、さるホテルのロビーで落ち合ったんです。そしたら、女房の奴、子供づれで現われましてね。こちらが、どうして、こんなとこに子供なんか連れて来たんだ、と怒鳴りだす間もあらばこそ、子供が私の膝の上によじ登って来て可愛い口ぶりで私のいなかった間のことなど話し始めたんです。そうこうするうちに、K女はトイレに行くようなそぶりで席を立って、それっきりなんです。子はかすがい。昔の人はうまいことを言ったじゃないですか。今になると名古屋駅のたそがれ時の風景が夢のように思えてね」

 Iはここまで一気にしゃべると、ほっとしたように煙草に火をつけて、うまそうに吸い込んだ。


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