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たそがれに寄せて(あとがきにかえて)「父との別れ」
父が亡くなったのは平成六年十二月十一日。五十九才の誕生日の翌日、生母の死から四ヶ月後である。
この日、両親は翌日から何度目かのウィーン旅行に出かける予定で、夕食後、母はその荷造りに勤しんでいた。
当時、父は失意の中にいた。可愛がってきたWさんがコッソリ別会社を作り、父が手がけてきた仕事のほとんどを奪ってしまったのだ。父は還暦を控えてWさんに仕事を譲る気でいたから、この裏切りにはひどく傷ついた。
そのためか父は夕食どきになるとあおるようにウイスキーを流し込み、毎夜のように酔い潰れた。
この夜もろくに食事には手をつけず、父はそのままダイニングでウトウトと船を漕いでいた。母に荷造りを任せたままの父に苛立ちをおぼえながら、私はリビングのソファに寝転び、面白くもないテレビ画面をただ眺めていた。
大きなイビキが聞こえなくなり、振り返ると父は椅子の肘掛けに覆い被さるようにしている。さすがに寝苦しいだろうと「お父さん、布団で寝なよ」身体を起こそうと手を伸ばした。痩せた父の身体が、いつになく重い。異変を悟ったのはこの時だ。
口に耳を近づけると、まるで深い洞穴の中から聞こえるような虚ろな響きが耳に残った。この音は、いまも耳から離れない。
父は呼吸をしていなかった。
人工呼吸をしながら、魂が漂っているかもしれない中空に向かって「いま行ってしまうなんてずるいぞ!」と叫んだ。なぜそう口走ったのか、自分でもわからない。母と自分、どちらが119番したのかも記憶にない。
病院に着いてしばらくすると、医師は、呼吸も戻った、あらゆる検査もした。しかし悪いところがどこにもない。ただ心音だけが弱まっている。これでは治療のしようがない、と言う。
別れの言葉を交わす機会はついに訪れることはなかった。
正直、この前後の記憶はかなり断片的だ。葬儀には住職が驚くほど、多くの方が弔問に訪れてくれた。友を大切にした父らしく、誰もがその死を心から悼んでくれたことが、子として誇らしかった。
葬儀の数日後、父の机から遺言のようなメモが出てきた。会社の処分、葬儀の手はずなどが丁寧に指示されていた。日付は亡くなる二年前だった。
埋葬について、遺骨は墓石の下ではなく、墓地の片隅、愛する南アルプスの山々が見渡せる場所に埋めてほしい。「信州の山々に見守られて眠りたいのです」とあった。母が一番泣いたのはこの時だったように思う。
メモの最後の一節にはこうあった。
『辞世(在原業平のコピーです)
ついにゆく 道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは 思はざりしを』
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