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たそがれに寄せて(37)「伊那の若い衆」

 この夏もゴーザ川のほとりのHさん宅にお邪魔した。妻も息子も、Hさんと奥さんのSさんとはすっかりお馴染みになってしまったようで嬉しい。

 なにせ、わが家があの開墾地に入植して以来の付き合いだから、その長さは四十年をとっくに越えている。最初、Hさんは父と親しくなり、夜になると時たまにゴーザ川の丸木橋を渡ってはわが家に遊びに来た。年齢からすれば私と父との真中くらいで一、二年前に古希を祝った筈である。父が亡くなると自然とその付き合いを私が引き継いだよう形となり今日に至ってしまった。

 この家の座敷から見え隠れするゴーザ川沿いの杉木立を眺めているとあの頃の盆踊りのことが思い出される。

 この川べりには、それこそ猫の額ほどの平地があり、盆が近づくと部落の若い衆たちが丸太を組んで櫓を作った。Hさんの家から電線がが引かれ、裸電球がその上に取り付けられた。勿論、Hさんも若い衆の一人で張り切ってこの作業に加わっていたに違いない。盆踊りの晩ともなると暗夜にともされたたった一つの電灯がまぶしい位だった。日頃は汗まみれ、泥まみれになって野良仕事をしている娘さんたちも、この宵ばかりはこざっぱりした浴衣姿で現れ、子供心にもえらく艶めかしく映った。

 盆歌と言えば、土地柄「伊那節」や「木曽節」が一番人気があったが、もうひとつ、どうしてもその歌の名を思い出せないのだが、さわりのところの歌詞が「伊那の若い衆は、伊那の若い衆は、天竜の水で・・・」というのがあった。私はこの歌が好きだった。

 あの頃、SさんはHさんの所に嫁いで来たのだろうか。時折り畑仕事にいそしんでいる姿を見かけた。そんな思い出にふけっている間にも、Sさんは自慢の梅の砂糖漬けや、野菜の煮物を運んで台所と座敷の間をせわしく往復し、その度ごとにコロコロと笑う。こんなに陽気な人は滅多にいるものではない。こちらまで楽しくなってしまう。

 いつものことながら、いとまを告げるとHさんはダンボール一杯の野菜を車のトランクに放り込んでくれた。これがまた有難い。Hさん夫妻は門口まで送ってくれ、来年の再会を楽しみに別れを告げた。

 それから一ヶ月も経たないある日、本家から電話があり、Sさん死去の報がもたらされた。二、三日床についただけで亡くなったという。信じられぬ思いだった。

 翌日の早朝、長距離バスに乗った。いつも伊那谷を訪れる時は、恋人に会いに行くような気分になるのだが、この日ばかりは違っていた。I町のバス停に降り立つと、この地方には稀な残暑が重苦しかった。

 Hさん宅に着くと、座敷も庭もごった返していて、Hさんは半袖のYシャツ姿であちこち指図に飛び回っていた。縁先に立っていた私の姿を認めるとHさんは駆け寄って来て「遠いところを済まんねぇ」と挨拶してくれた。

 型通りの葬儀が始まった。いつの間にか黒の礼服に着替えたHさんは祭壇に近い廊下に正座していた。

 お焼香の最後はHさんである。祭壇に向かって拝礼してから参列者の方に向き直り深々と一礼した。世話役の人が立ち上がり「役配(やくはい)を申し上げます。何々殿、遺骨。何々殿、のぼり旗」という風に、近親の順に葬列の並ぶ順と各人が墓地まで持って行くものを読み上げる。つれあいを亡くした人の場合、残された方の人は葬列に加わらない。あまりにもむごいからであろう。

 世話役さんが今一度順番と持ちものを確かめると、田の道に並んだ葬列は少し離れたHさんの先祖代々の墓所に向かって炎天下をゆっくりと歩みはじめた。

 門口でこれを見送っていたHさん は「儚いもんだのう」と言って真っ白いハンカチを顔に押し当てた。そばに立っていた人達が慌てて両脇からHさんを支え、家の中に連れて入った。Hさんに、いとまの挨拶をしに行こうとしたが思い止どまった。久しぶりにゴーザ川のへりを歩きたくなり、この家の裏手に回った。あの盆踊りの平地は夏草に覆われ、見る影もない。

 が、ここに佇んでいると「伊那の若い衆」の盆歌や、あの夏の宵の楽しさが蘇って来た。東京に戻るバスの時間である。蝉しぐれの降りしきる杉木立ちの小径を辿って帰途についた。

 Hさんは毎年、秋の終わりに酸味の程よくきいた美味しいリンゴを送って呉れる。おかげで、わが家の朝の食卓が賑やかになる。

「ひょっとして、今年は来ないかも知れないな」と諦めかけていた矢先、大箱がドカンと届いた。

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