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たそがれに寄せて(28)「フェスティバルの頃」

 今日、東京や大阪のような大都会では毎晩のように内外の有名な演奏家やオーケストラがコンサートを開き、年間を通じて音楽フェスティバルをやっているような感がある。

 こうした風潮のパイオニアとなったのが大阪の国際フェスティバルで、その第一回が開催されたのが奇しくも私がサラリーマン一年生として大阪に赴任した昭和三三年だった。

 鰊(にしん)のことを春告魚とも書くが、このフェスティバルは、私にとって文字通り春を告げる胸のわくわくするような行事で大阪時代の青春のかなり大きな部分を占めていた。

 あの頃の給料は多分、手取りで一万二千円位だった。寮費だ、飲屋の払いだ、と月末の精算をして手元に五千円も残ればかなり良い方で、毎月まったくのピービー暮らしだった。金が無くなるとUビルの地下のレストランで昼食をとった。少し高級なのだがツケきくので止むを得ない。正に悪循環の典型である。

 昭和三十四年のフェスティバルは凄かった。イゴール・スストラビンスキー自身、ジャンルイバローの率い入るコメディフランセーズ、ウインオペラなどが来日し、フェスティバルの一つの頂点が築かれたような年だった。

 この年、三月二十五日に給料を貰って借金を精算すると手元には千円余りしか残らない。これではフェスティバルはおろか、来月の給料日までの食いつなぎすら覚ぼつかない。

 暗澹たる気持ちでUビルのレストランに入った。ここの一方の壁面はバーのカウンターのようになっていて、夜は一杯飲めるようになっている。私はそこでランチを黙々と食べていた。その時突然、正面上方にあったテレビの台の支柱が折れて受像機が私を目がけて落ちて来た。やっとの思いで身をかわすと、それは頭をかすめて大音響と共に床にころがり落ち、額には猫が引っ掻いた程の傷が出来た。

 その日の夕刻、レストランの支配人が果物の篭と、金一封を持って独身寮に現われた。果物の方はともかく、見舞金の方はいくら入っているかと開けて見ると五千円入っていた。月給がやっと一万円そこそこの時代だから大金である。

 神は見捨て給わず、私は五千円を握りしめ、フェスティバルホールに駆けつけた。

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