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たそがれに寄せて(27)「間奏曲(たそがれの東京タワー)」

 高校三年の頃、学校の帰りに同級のNと一緒に英語塾に通った。日本もまだ貧しい頃だったから、冷暖房なし、三人掛けの粗末な椅子と机、教壇と黒板が教室のすべてだった。どこに誰が座ろうが自由なのだが、面白いもので、開講後一ヶ月もすると、なんとなく各人の座る席が定まってしまう。

 Nと私は三列ある机の真ん中の列で前から二番目の席に陣取ることになった。そして、私は三人掛けの机の中央、Nは左はしという順序が出来上がった。

 受験時代を「灰色の青春」と称することもあるが、我々にとってはそうでもなかった。学校が男子校だったせいもあり、塾に来る女の子たちが珍らしかったし、彼女たちの前で恥をかきたくないという気持もあって、意外と楽しく勉強が出来た。

 三人掛けの机の間には通路があり、左側の机の右はしに座ったのがM女だった。浪人中ということもあって大人びた風情があり、クラスの中でも目立った存在だった。私たちと彼女とはいっの間か言葉を交すような仲になっていた。

 と言っても、テキストのわからないところを訊ね合ったり、ごく他愛のない会話が交されたに過ぎない。卒業も間近な頃、「お互いに志望する大学は違うけれども、一段落したら連絡し合いましょうよ」ということになって、お互いの住所をノートの片隅に書きあった。ひょっとして、言い出しっべは私だったかもしれない。

 それぞれ、まあまあの大学に落ち着けたので、三人は一度だけ新宿で自前の入学祝いをやった。学校が違ってしまうと親しかったNとの仲も、年に一回位の高校時代の友人達との飲み会で顔を合わせる程度の疎遠なものになってしまった。

 やがて卒業、私は大阪に赴任した。二年程たってNから突然電話が来た。「実は、俺、今度結婚するんだ。招待状出すのを忘れたんだけど、ぜひ来てくれよ」

 披露宴会場の入り口で花嫁姿のM女を見た時には本当にびっくりした。Nも人が悪い。しかし、これだけのことならば、話の種にもなるまい。うかつにも私がNとM女との仲に気づかなかっただけのことである。隣の席に招かれていた旧友のDが「おい、驚いただろう。事情は後でゆっくり教えてやるよ」とにやにやしながらささやいた。Dとも久しぶりだったのでお開きになってから、銀座裏の小さなバーで飲み直した。

「お前は知らなかったらしいが、NとM女の間は大学時代も続いてたんだな。といって、そんなに深い仲だったわけじゃない。時たま会って、一緒に映画を見たり、お茶を飲んだり、普通のボーイフレンドとガールフレンドの仲さ。その点、俺も保証できる」

「しかしだな、問題はその後よ」Dはもったいぶって水割りをもう一杯注文した。
 あの頃、四年制の大学を出た女の子は、ただでさえ結婚相手が見つかりにくいと言われていた時代だったのに加え、M女は一年浪人していただけに親の心配は並大抵ではなかったらし
い。両親の奔走の甲斐あって、さる著名な実業家の御曹子との間に縁談がまとまった。

「さすが、ハイソサイエティは違うんだな。その婚約披露パーティなるものが、ある日曜日の午後、銀座のYパーラーで開かれた。もちろん、御曹子やM女の友人達が中心のにぎやかな立食パーティだったらしい。ただ、俺にも分からんのはM女がNを招待したことなんだ。わたしにだってボーイフレンドぐらい、いるんですからね、とフィアンセに一発かませるくらいの軽い気持ちでやったんじゃないか、とは思うがね」

 五時ごろパーティは無事終ったらしい。この時、御曹子が彼女を世田谷の家まで送っていれば運命がいたずらに入り込む余地はなかったと思う。が、彼は大学時代の悪友達と飲みに行ってしまい、ほかの連中も流れ解散のように散ってしまったので、NとM女だけが取り残されたような形になってしまった。

「立食パーティというのはどうも中っ腹になっていけないや。時間もまだ早いし、なにか軽く食べて帰らない?」と、Nは彼女を東京タワーのレストランに誘った。日は暮れかかっていたが、灯がともるまでには少し間があり、高い所から見る薄暮の景色は一段と美しかった。

「あなたともこれが最後のデートだね。月並みな言い方だけど、幸せになって下さい」 N はいつになく、しんみりした口調になっていた。

「実は、あの人と結婚なんかしたくないんです。好きじゃないんです。あなたが好きだったんです。ずっとそうだったんです。 あの塾に通っていた頃からずっとなんです・・・・」突然、M女はハンカチに顔を押しあてて激しく鳴咽した。

「それからがひっくり返るような大騒ぎよ。なにしろ式場の予約はもとより、招待状も発送ずみ。花嫁のかつら合わせまでしてあったそうだから。Nも罪な奴だよ」Dは三杯目の水割りを口にしながら言った。「いや、罪なのは夕暮れ時の魔力のせいかも知れん」と私。

 この結婚は後に解消された。Dは常識人らしく「あの結婚にはもともと無理があったんだよ」と言うが、私には、あのタ暮れ時の魔法が、何かの拍子で、ある日突然、解けてしまったような気がしてならない。


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