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たそがれに寄せて(38)「邂逅」

 人生を一応八十年として、これを一日二十四時間に振り分けると、午前零時誕生、六時で二十才、青春。正午で四十才、働き盛りである。午後九時で六十才、という勘定になる。

 平成三年十二月十日、私は五十六才の誕生日を迎えた。人生時計にすれば間もなく午後六時を迎える。夜のとばりが降り切るまでには少し間があるが、美しい幕切れの演出を考えてもおかしくない年齢になってしまった。

 こんな思いでこの一年を振り返って見た。

 息子は希望通りの会社に就職が決まった。妻は親しい友たちと初めての中国旅行を大いに楽しんで来たようだ。私といえば、一年余り前から相棒になってくれたWさんが仕事をキチンと覚えてくれて申し分ない。実りある一年だった。このまま行けば穏やかな年の瀬が迎えられそうだった。

 十二月十六日の朝、見知らぬ人から電話があり、妻がこれを受けた。妻の応対の調子からすると容易ならざる事態が発生したようである。三十分程して電話は切れた。私が居間に出て行くと妻は尻もちをついたような恰好でソファにへたり込んでいた。

「大変なことが起こってしまったのよ。少なくとも、あなたにとっては大変なことが持ち上がってしまったのよ」妻は喘ぐように言った。

 電話の主は私の生母の甥の奥さんのS夫人であった。その内容は大方次のようなものであった。
 生母、Fはわが家を去ってから暫くして音楽家のTさんと再婚した。Tさんは八十五才位まで現役のミュージシャンとして、かくしゃくとして活躍していたが、聴力が衰え、止む無く引退した。母もこれとほぼ時を同じくして視力を失って行ったらしい。これが五年ほど前の話である。

 耳の聞こえぬ夫と、目の見えぬ妻ではまともな生活が出来る筈がない。目の不自由な母に代わってTさんは毎日のように近所のパン屋さんに買い物に来た。そのTさんが二、三日姿を現さないのを不審に思ったここの奥さんが覗きに来るとTさんは死んでいた。目の見えない母はこれに気がつかなかった。ともかく葬式だけは出されたが、参列者はS夫人だけという侘びしいものだった。十月半ばのことだった。

 盲しいた老女の独居生活が始まった。市の福祉課や民生委員が援助を申し入れたが彼女は頑として受け付けない。目が不自由なために何時の間にか猜疑心が育って行ったようだ。見るに見かねたS夫人が週に一回、一週間分の食料を携えて湘南のC市の彼女の住まいを訪ねた。

 十二月に入り、S夫人が来てみると母は転んで腰を強打したらしく台所に蹲っていた。S夫人の訪問がもう少し遅れていたならば、飢えと寒さのために一巻の終わりとなっていた可能性は十分にあった。こうなるともうS夫人の手には負えない。
 しかも、母は依然として頑固に入院を拒否している。本人がこのような態度に出た場合、強制的に入院させる権限を有しているのは実子だという。急拠私の行方が探された。

 これがS夫人が突然電話を掛けて来る迄の顛末である。正直なところ、夢想だにしなかった事態の発生に私の気は動転してしまった。その日、どうしても外せない重要な約束があったため、取りあえずは妻がS夫人とC市で落ち合い、様子を見に行くことにした。しかし、この電話があって以来、私は何をやってもうわの空で仕事どころではなくなってしまった。

 生母は私が一才の誕生日を迎える前にわが家を去った、と言うより追い出された。盲腸の手術で入院した隙を突かれ、嫁入り道具の一切合財が実家に送り返された。もっとも、アップライトのピアノだけは運送屋の手に余ったらしく、私のもの心ついてからも暫くの間、部屋の一隅に置かれていた。そのキーを叩いて遊んだことが記憶の奥底にかすかに残っている 。しかし、このビアノも何時の間にか消えてしまった。

 離婚の真の理由は今や判らない。後年、周囲の人達から聞いた話を総合すると、一方的に追い出されたわけではなさそうである。母にもかなりの落度があったようだ。

 母の消息について、親戚や知人に対して厳重な緘口令が敷かれたらしい。もしも、私が母のことを尋ねたならば、盲腸炎で入院したが手遅れで亡くなった、と答えるように、というお布令が行き渡ったようだ。そして、わが家からは母の痕跡が微底的に拭い去られた。

 幼い頃の私は、母がこの世の人でない、という説に一応は納得した。が、小学校に上がる年齢になると、何となく疑問を持つようになった。仏壇に遺影や位牌がないのもおかしい。もしも、本当に病死したのならば、写真くらいはあってもよいではないか、と思ったりもしたが、口には出さなかった。家中が母のことをタブー視していることが幼な心にも感じ取れた。

 釈然としないまま十年あまり経った。高校三年の夏、受験勉強のためI町の本家の隠居所に一ヶ月あまり籠もった。三百メートル程離れた所に父の従兄弟のIさん一家が住んでいた。ここのH伯母はとても美しい人で、私のことを大層可愛いがってくれたし、何となくウマが合った。毎晩のようにこの家に遊び行った。

 ある晩、おしゃべりの途切れた接ぎ穂に「なんで離縁なんかなさったんでしょうねぇ」と伯母がつぶやいた。最初は何のことやら判らなかった。が、次の瞬間、真相を悟った。ここは口封じが届いていなかったらしい。平静を装ってはいたが、目まいがした。永年の疑問がこの時解けた。生母がこの世のどこかで生きていることは、まぎれもない事実のようだった。

 しかし、母に逢いたいという気持はそれほど湧いて来なかった。もっと早い時期にこのことを知ったならば、私の心は大きく動揺していたかも知れない。が、この時にはある程度の分別のつく年齢に達していた。この夜の一件については誰にも漏らさなかった。ある種の諦めの心境だったのかも知れない。

 真相を知った時の衝撃は大きかったが、生母のことは次第に私の意識から霞んでいった。どこかで幸せに暮らしていればいいさ、という気持だった。

 湘南のC市。駅でSさんと落ち合って母の家に案内され。た。「Kさん、あなたとは本当の従兄弟になるんですなぁ」Sさんは道すがら感慨深げにつぶやいた。彼はクラッシック音楽の世界では重鎮である。このことも初めて知った。

 信州伊那谷のローカル芸術家として、父方からは画才、文才に長けた人が何人か出ている。しかし、音痴の血筋らしく、こちらの縁者の酒宴で歌が飛び出したことは一回もない。そうか、私の音楽好きは母方譲りのものだったのか、そんなことを考えているうちに母の家に着いた。なんと、私の昔のボス、N氏の屋敷とは通りを隔てて目と鼻の先ではないか。このお宅には何回かお邪魔したことがある。三十年あまりも昔のことだがN夫人の肝いりで見合いをし、デートをしたこともあるR女の家とも数軒と離れていない筈だった。

 こんな所に住んでいたのか、不思議な気持がした。だが、そんな感慨にふける間もなくSさんの案内で家の中に入った。

「靴の脱げるような状態ではないので土足のまま上がって下さい」とSさんが言った。

 昔はさぞかし藩酒だったと思われる住まいは陋屋と化し、昼間にも拘らず雨戸は全部締め切ってあった。 この状態は大分前からのようだった。室内には悪臭が立ち込め、ゴミ箱さながらだった。妻から様子は聞いていたが予想以上の惨状である。

「これでも、あなたがお見えになるというので、今朝早く来てかなり片づけたんですよ」と、ゴム手袋をしたままのS夫人は些か疲れたような表情だった。

 薄暗い電灯の下に白髪の老女が横たわっていた。それが私の生母だった。母は盲いており、正に最悪の状態の中でのご対面である。Kが来ました、と名乗ると彼女は一瞬たじろいだようだが、私のことをはっきりと覚えていて素直に受け入れた。

 俗に腹を借りる、という言葉があるが、一旦、腹を借りてしまうと、飛んでもない時になって、飛んでもないことが起こり得ることを思い知らされた。小説やドラマの中の出来事としては大いにあり得るだろうが、これが現実となって我と我が身に降りかかって来るとは考えもつかなかった。

 しかし、起こってしまったことからは逃げようもない。あらかじめの夫人が連絡しておいたのか、タイミングをねらったかのように、民生委員のMさんが顔を出した。皆で市役所に行き善後策を相談し、私はすぐに入院の手続きをした。母は散々悪態をついたが、しまいには救急車で病院に収容され、ここの診療室で待ち構えていた看護婦さん達は母が到着すると直ちにその衣服を脱がせにかかった。職業柄とは言え、正に目にも止まらぬ早業である。私が席を外す一瞬前に彼女はまる裸にされ、そのある箇所が私の目に入ってしまった。
「アァ、俺は五十六年前、ここからこの世に飛び出して来たのか!」と思った途端、形容し難い感傷に襲われた。

 腰の打撲もさることながら、診断の結果は子宮ガンの四期であった。既に膀胱を冒されていた。これではたれ流しとなり家中に悪臭が立ち込めていたのも当然だった。

 翌日、知人のつてで、わが家から比較的近いK病院に移した。事件の突発後、母の顔をゆっくり見入るゆとりもなかったが、ここに来てベッドに横たわる彼女の顔をしげしげと眺め入った。妻の言う通り、私の頬から鼻にかけての輪郭は正に母ゆづりのものである。父は複雑な思いで私の顔を見ていたに違いない。父はたまに、いわれのない怒りを私に爆発させることがあったが、その遠因がどこにあったのか、今にして判ったような気がする。

 取りあえずはC市の家が空き家になってしまった。警察からの要請もあり、S夫人と戸締まりに行った。警察としても万全は期せないから、盗まれて困るようなものは引き揚げておいて下さい、とのことで警察公認の空き巣ねらいになったような気分でこの家の整理をした。

 大した物はなかったが、今まで私の知らなかった母方の歴史を物語る資料がいくつか出て来た。アルバムから母の若い時の写真を何枚か引きはがして持ち帰った。仲々の美人である。ダリヤの大輪、といった感じだ。この人は水商売か芸能界に入っていたら、意外といい線を行ってたのかも知れない。

 しかし、これでは父とうまく行く筈がない。父が口をきわめて褒めそやしていた女性は、控え目で、気配りのきく、大和撫子だった。父への恨みは消えた。

 それにしても、この病院の看護婦さん達はなんとキビキビと、しかも親切に立ち回るのであろうか。職業とはいえ、私は頭が下がった。「白衣の天使」なる使い古された言葉があるが、これが決して死語でないことを知った。この人達の待遇をもっと良くしないとバチが当たるであろう。

 入院したての頃の母はかなり虚勢を張っていたと思う。先生や看護婦さんたちを罵倒して診察や治療を拒んだ。これには私も身の縮む思いがした。病院からは治療や服薬を受け付けない患者は入院している意味がないから退院して欲しい、と申し入れがあった。病院を追い出されたら行く場所がない。この寒中にC市の家に戻すことは死にに行かせるようなものだ。

 仮に自宅に引き取るといっても盲目でガンの末期、しかも歩行不能の老人を介護することなど不可能である。父は自宅療養中に亡くなった。その最後の数ヶ月間、妻は献身的な看護をしている。継母が亡くなる暫く前、遠方の病院に入った時も、忙しさにかまけて見舞いに行かなかった私に代わって妻は頻繁に見舞いに通った。これ以上妻に面倒はかけられぬと思った。
それよりも何よりも、いくら実母とは言え、父と継母の位牌の安置してあるこの家に連れて来ることは、故人に対する冒涜のような気がした。

 看護婦さんの手から薬を飲まぬというのなら、私が毎日飲ませにまいりますから、どうか病院に置いて下さい、と懇願した。私の病院通いが始まった。毎日、夕方になると病院に行き看護婦室で薬を受け取り母の病室に向かった。 他愛ないおしゃべりをしながら薬をジュースに混ぜてさりげなく与えた。大変なことになってしまったが、いやではなかった。

 五十五年ぶりに再会したのだから、そのあいだお互いにどう過ごして来たのか、積もる話は山ほどありそうなものだが、不思議とそういうことは滅多に話題とならなかった。過去のことはさほど重要でなく、こうして対面している時間そのものが貴重なものに思えて来た。 母の態度も次第に穏やかになり、私が行くと心から喜ぶようになった。自分の血を分けた息子やその妻、さらには孫までいるという認識が深まるにつれ、母の心境は大きく変わって来たようだった。

 母の手を握りしめていると、無言のうちにもお互いに失われた時を求め合っているような気持になった。

 母の病室は裏庭に面していた。ソフトボールくらいなら出来そうな広い場所には、色々な木が植わっていた。母がここに来た時には枯木の林であったが、いつしか桜が咲き、桃がこれに負けじ劣らじと濃いピンクの花を開かせた。いつも雑事ににとりまぎれ、季節の移ろいなどあまり気にもし なかったが、母の手を握りし めながら、外を眺めていると時の流れの早さに驚く。

 五月初旬の美しい黄昏時であった。いつも病院のこの庭の木立を寝ぐらにする雀たちのおしゃべりに交じって「チッ、チッ、チチッ!」という鋭い声がして、黒い影が窓に写った。燕が戻って来たのだ。私は幸せな思いで病室を後にした 。

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