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十牛図(じゅうぎゅうず)は、

禅の悟りにいたる道筋を

牛を主題とした十枚の絵で表したもの。

中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものが有名。

以下の十枚の図からなる。

ここで牛は人の心の象徴とされる。

またあるいは、

牛を悟り、童子を修行者と見立てる。


(1)■尋牛(じんぎゅう) 

- 牛を捜そうと志すこと。

悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。


(2)■見跡(けんせき) 

- 牛の足跡を見出すこと。

足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。


(3)■見牛(けんぎゅう) 

- 牛の姿をかいまみること。

優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。


(4)■得牛(とくぎゅう) 

- 力づくで牛をつかまえること。

何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。

(5)■牧牛(ぼくぎゅう) 

- 牛をてなづけること。

悟りを自分のものにするための修行を表す。


(6)■騎牛帰家(きぎゅうきか) 

- 牛の背に乗り家へむかうこと。

悟りがようやく得られて世間に戻る姿。


(7)■忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) 

- 家にもどり牛のことも忘れること。

悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。


(8)■人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) 

- すべてが忘れさられ、無に帰一すること。

悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。


(9)■返本還源(へんぽんげんげん) 

- 原初の自然の美しさがあらわれてくること。

悟りとはこのような自然の中にあることを表す。


(10)■入てん垂手(にってんすいしゅ)

- まちへ... 

悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。


十牛図の事は、最初のスピリチュアル
非二元・ノンデュアリティの一瞥が起きた、
2015年の5月あたりに知りました。


十牛図のように修行により、
徐々に気づき、アウェアネスが深まる、

悟りが深まる、

悟りが浸透する様子を描いている時点で、

すでにブッダの真の悟り、解脱とは

全く違うものになってしまっています。


気づき、気づきが深まる、

観察する、ただ観る、

観照する、

意識を身体のある部位に向ける、

意識を置く、

客観視、俯瞰視、

想念観察、

呼吸に意識を向ける、呼吸法、

念切り、足裏の感覚に意識を向ける、

音叉、シンキングボウル、

チャクラ調整、観念浄化、

思考を鎮める、

自我、エゴを手放す、

カルマ解消・・・・・・まだまだありますが、

これらの事を実践しているのならば、

仏陀の真の悟り、解脱の為の

実践なき実践とは全く違う事をやっています。



仏陀の真の悟り、解脱の体現に与るのは、

起きる時は一瞬です。

十牛図の原作者は少なくとも、
全くもって悟っていませんし、


十牛図はブッダの真の悟り、解脱でも何でもありません。

世間では悟りの境地や状態を話していますが、

そもそも悟りに境地や状態なんてありません。


どんなに有名だろうが、

悟りの境地や状態を話してる時点で、

その人は真相を体得できていません。


十牛図については、
おそらく悟ったと称される人達から
話しを聞いて作成したのではないかと推測されます。

ですが、
仏陀の悟り、解脱とはかけ離れていますし、

真の悟り、解脱に段階などはありません。



日常生活のすべてがすでに禅そのものであり、
誰しもが無我無心ですでに悟っており、

十牛図のどの段階でも
ブッダの真の坐禅修行に精進していれば、

認識が完全に落ち切る
ブッダの真の解脱は一瞬で起きます。


スピリチュアル、非二元・ノンデュアリティ

瞑想やマインドフルネス、

ヨガのクンダリーニ、禅の一部の修行等で、

気づきが深まる、
悟りが段階的に浸透するなどの表現があります。


悟りは深まったり浸透したりするものではありません。



個の意識の覚醒のそれを

小悟・中悟・大悟、解脱、見性、実相、

純粋意識、気づきの意識などと呼んでいますが、

ブッダの真の悟り、解脱の見地からすると、

ブッダの悟り、解脱は、

宇宙意識、純粋意識などの個の意識の覚醒、変容ではないし、

小悟・中悟・大悟といった、

悟りのレベルなんていうのも一切ありません。

ハッキリしたか、ハッキリしていないか

のどちらかであり、

仏陀の真の悟り、解脱で起きる体現は

みな誰しもが同じです。


一切の認識のない

生まれたての赤ん坊に一度戻るのですが、

スピリチュアル・非二元、ノンデュアリティのような

個の意識が目覚め、大いなる存在のような意識が変容して

シフトするような事は一切ありません。

スピリチュアル・非二元・ノンデュアリティは悟りぞこねか、

悟りとは全く違うものです。


スピリチュアル、

非二元、ノンデュアリティの気づきは

この約9年で8度ありますので、

個の意識の変容も体験したので否定はしませんが、

その気づきを悟りなどと世間では呼んでいますが、

ブッダの真の悟り、解脱とは全く違うものです。



非二元、ノンデュアリティの代表では

エックハルト・トールや

ラマナ・マハルシやOSHOなどがいますが、

つまり彼らは、

悟りぞこねの非二元、ノンデュアリティ止まりで、

ブッダの真の悟り、解脱の体現に与る事なく

身体が朽ちて終えたのです。


当時は非二元・ノンデュアリティの気づきを

ブッダの云う悟り、解脱、見性だと思っていましたが、

宝物のように扱って掴んでいた

消滅すべき自己が

完全にはがれ落ち切り、

また、

ブッダの真の悟り、解脱の坐禅修行の実践なき実践によって、

非二元・ノンデュアリティは悟り、解脱ではないと、

身を持ってして自覚しています。


なにか苦しい事、

しんどい事、

人間関係や健康の事、

生き辛さ、

相当の苦悩があり、

精神世界との縁があり、

今、このブログを読んでおられるのだと思います。


折角、

精神世界に縁があったのですから、

スピリチュアル・非二元・ノンデュアリティの

ブッダの真の悟り、解脱ではない気づきでも、

十分に生き辛さが減り、

一時的には解決して

楽に生きられるようになりますが、

これらには再現性がなく、

どうせなら本物の真の悟り、解脱、

仏陀の伝える真の坐禅の実践で、

心底、真の自由そのものとして

日常生活を送って頂きたい、

その事を心から願っております。



正しく坐禅を実践すると、

どんな方でも即解脱、

即決着すると、

本来はそうなのですが、

高度な情報社会の時代の中で、

人間的な考え方、

言葉を用いた観念、

概念世界に重きを置いている我々現代人は、

考え方で追及する事から足を洗うために

坐禅修養に時間は概念ですが、

時間をかけないと駄目な様です。


ですが、

生きづらさ

しんどさの根本からの解消としては、

心理学や潜在意識、量子学、願望実現、自己実現、自己啓発、

考え方、在り方、生き方、ヨガ、哲学、仏教、宗教、信仰、瞑想などではなく、

自己にとって都合の良いものを
得ようとすれば、修行にならない
のですが、

観念に縛られていない

真の自由そのもので

迷いなく日常生活を過ごすには、

ブッダの伝える真の坐禅の実践なき実践で

解脱の体現に与る

それでしか

根本から解消でき、救われることはありません。


ですから

諦めないで、

自分自身を誰かや何かにすがったり、

頼る事なく、

自分自身を救える

ブッダの伝える真の坐禅の実践をしてみて下さい。


ブッダの真の悟り、解脱

そのための実践方法は世の中に出回っておりません。


あなた自身が真の坐禅により救われ、

奥底からの笑顔を取り戻す事を心より祈っております。


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