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「春のこわいもの」幻視者・川上未映子〈迷路的なるもの〉の終末のヴィジョン

No.1: 川上未映子の短編小説集は、短編小説が集められたものという意味での短編小説集ではないあるいは、採集された世界の断片としての小説

川上未映子の短編小説集は、短編小説が集められたものという意味での短編小説集ではない。そして、その短編小説は、短編小説集に収録されているという意味での短編小説ではない。川上未映子のそれは、その複数の作品がひとりの小説家によって生み出されたものであることを理由として、さらに、それらの個別の作品がひとつのモチーフによって書かれたものであることを理由として、ひとつの作品集として集められているのでもない。表面的な見せ掛けとして、短編小説集であるとしても。

川上未映子の短編小説集とは、小説家・川上未映子によって書き(搔き)集められた世界の断片の採集箱なのである。分類されることなくラベリングされる前の陳列される前の採集されたままの世界の生の断片。切断された世界の断片としての川上未映子の小説。短編小説というかたちをした世界の断片川上未映子の短編小説集の中で、世界の断片が生きているものとして蠢く。

川上未映子の短編小説集は、その形式は、短編小説集であるが、それは〈大きなものの一部分〉であり、それは〈大きなものの幾つかの断片〉なのだ。〈大きなもの〉とは、世界そのものであり、それを読むことは、〈大きなもの〉としての世界の断面を読むことになる。川上未映子の短編小説集は、その全部を描き切ることが不可能なものを、それでも描き出そうとする永遠の未完の試みなのである。

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No.2:かたち作られる星座として、折り重ねられる透かし絵としての川上未映子の短編小説集

川上未映子の最新の短編小説集「春のこわいもの」について語る前に、この事態について、少し詳細に述べたいと思う。川上未映子の短編小説集のこの事態を見誤ってしまうと、川上未映子の小説の存在のありようそのものを取り違えてしまう惧れがあるためだ。この事態は川上未映子の小説の本質と直結する事柄なのである。

その事態を二つの喩えを使って表現してみよう。

一つ目の喩えは、かたち作られる星座としての短編小説集。

川上未映子の短編小説集は、ひとつ、あるいは、複数の星座である。川上未映子は短編小説を書いているのでもなければ、短編小説集を書いているのでもない。彼女が作り出しているものは、その複数の短編小説の星々からかたち作られ織り成される星座なのである。だから、その小説集の読み手はその星座のかたちを読み取らなければいけない。そこに収録されている個々の短編小説は、それ自体が光を放つものとして単独で存在しながらも、他の短編小説との間で形を作り出す星々として存在するものなのである。その星座のかたちの中にこそ、その星々の光の意味が存在している。

二つ目の喩えは、折り重ねられる透かし絵としての短編小説集。

川上未映子の短編小説集は、個々の短編小説をひとつの透かし絵とし、それらの全部を重ね合わせることで、はじめてそこに現れる絵画としての小説となる。つまり、ひとつの透かし絵(個々の短編小説)だけを額縁に入れて鑑賞してしまうと、その絵の持つ意味を読み損なってしまうことになってしまう。読み手はそれらの作品を、自分の手で自分の中で、重ね合わさなければならない。それらを透かして、重ねなければ、その言葉で描かれた光と影の溶け合う風景が出現することはない。

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No.3:「全体小説(roman total)」の歓び、 組み立てられるショット、シーン、シークエンスあるいは、透かし絵の星座で埋め尽くされた天空図としての短編小説集

川上未映子の短編小説集に収録されている各短編はそのことによって時に、作品の立体性(奥行きの深さと広さ)、色彩性(物語の進展の様相)、完成度(形式と内容の噛み合いの具合)、文体(言葉の身体)等が犠牲となってしまう。それが大きなものの一部分として断片として書き取られるために避け難く生じてしまう、その断片の断面性。大きなものと新たな接合をするために、断面は断面として手当されることなく放置される。断片の断面性が引き起こす不完全性と散逸性。そのため結果として読み手は個々の作品の出来栄えのばらつきの大きさと形の不可解な歪に戸惑うことになる。

その作品の美しさに感嘆の声を上げる一方で、「これは少々腑に落ちないな」、あるいは、「これは何だか表面的な描写だけで良くも悪くも漫画だ」と思う人さえいるのかもしれない。それは或る意味、正直な感想なのだと私は思う。そのことを理由にして、川上未映子の短編小説集を読み棄ててしまう人もいるのだろう。残念なことに。それでは「まだ、川上未映子の短編小説集の入口に立っていることでしかなく、その小説の世界には入ったことにはならない」にもかかわらず。

川上未映子の短編小説集の中のそれらを部品として捉え、あるいは、分解されたショット、シーン、シークエンスとして捉え、それらを自分の中で再構成することができないと、この作品集の意味はほとんど失われてしまうことになる。しかし、それらのショットとシーンとシークエンスが一旦、読み手の中で組み立てられてみると、表面的なものが奥行きを持つもののひとつの側面となり、腑に落ちない出来事が複雑に連鎖する一連の出来事の一部分となり、巨大なものが姿を現わしてくる。そこに深遠にして広大なる〈川上未映子小説宇宙〉が展開されることになる。川上未映子は世界そのものを小説によって描写し作り出そうとしているのだ。

誤解を招かないように明確にしておかなければならないが、「川上未映子の短編小説集はオムニバスである。」と言っているのではない。「独立した作品を幾つか集め編集し、そこに統一的なものを形成させたもの」という意味でのオムニバスではないということ。川上未映子のそれは独立していない。形式的に内容的に独立しているのかもしれない。しかし、それらは本質的に独立していない。それらは互いを必要とし、互いの存在を前提にして存在しそれらは底面として側面として天面として、大きなものの部分としての立体を構成し、あるいは、原因として結果として大きなものの部分としての物語の時間を形作り、互いの存在の中に必要不可欠な部分として、存在している

川上未映子の短編小説集を読むこと、それはまるで、未完の長大な長編小説の草稿を拾い読みしているかのような錯覚さえ覚えてしまうのだ。ひとつの断片が、別の断片の中に組み込まれ、ひとつの風景が現れ、その風景の中に別の断片が呼び込まれる。断片と断片が共鳴し、多層的時間と空間のシンフォニーが奏でられる。そこに失われた、小説を読むことの快楽が満ち溢れてていることは言うまでもない。川上未映子の短編小説集とは、「全体小説(roman total)」なのだ。星座で埋め尽くされた天空図という意味において。幾重にも折り重ねられた無数の透かし絵という意味において。

川上未映子の短編小説集を読むことによって、忘れ去られた「全体小説(roman total)」、それを読むこと、世界そのものを読むこと、複数の時間と空間を同時に経験すること、その眩暈のするような歓びが読み手にもたらされる。川上未映子の短編小説集はその小振りで華奢な外観とは異なり深く巨大なのだ。ひとりでも多くの人にそれを体感して欲しい、と私は思う。

No.4:「春のこわいもの」、一つのとても短い短編と四つの短編と一つの少し長い短編の六つの短編、あるいは、「ブルー・インク」のフラグメントが〈川上未映子小説宇宙〉の中で拡散し、その声が世界に木霊する。

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「― ねえ転入生
なぜいつもそう 雰囲気が深刻なんです
まるで世界がきょうでおしまいみたいに                                                 ― きょうはあしたの前日だから・・・だからこわくて
しかたないんですわ」                       (大島弓子「バナナブレッドのプディング」より引用)

大島弓子の「バナナブレッドのプディング」より引用した言葉をエピグラフとして掲げた、川上未映子の最新の短編小説集「春のこわいもの」。一つのとても短い短編と四つの短編と一つの少し長い短編の六つの短編からなる小説集。「春のこわいもの」という名の小説はこの小説集には存在しない。装画はAlex Hannaの「Sweet dreams 1」。装幀は名久井直子、いつものように

本来であれば、その作品のひとつひとつを取り上げ、丁寧にそのかたちと色合いと風合いを語らなければならないが、それは行わないことにする。その理由は前述したように、川上未映子の短編小説集の本質がそうしたことでは捉え切ることができないからであり、それは、その個々の作品を矮小化してしまうことになってしまうからだ。

しかし、それはこの作品集の中に収録された作品の全てが完結度と完成度の弱いものであるということではない。例えば、「ブルー・インク」。約30頁(400字詰め原稿用紙で約50枚)の短編。六つの短編の終わりに収められた少し長い短編の「娘について」の前に位置し、「春のこわいもの」の中心に立ち尽くすように存在する短編集の核というべき作品。

また、それは、冒頭のとても短い短編「青かける青」と呼応するものとして読むことができるのかもしれない。その呼応は「手紙」というモチーフの一致ということを超えた何かのことであり、それが何かは後に語ることにする短編「青かける青」は、僅か6頁、400字詰め原稿用紙で約10枚の作品であり、短編集のプロローグ的作品。だが、決定的な意味を持つ作品でもある。

「ブルー・インク」は川上未映子の全ての短編小説の中の最高傑作のひとつ繊細にして硬質な文体、明晰なイメージと人間の造形、モチーフの純粋性、調和を排した物語の時間の捻じれ具合、茫漠たる混沌へ収斂する結末の鮮烈さ、それらが極度の緊張感の中で激しく噛み合い、凄まじい完成度が達成される。それは収録された他の作品の中で特別な存在として光を放っている。

そこには小説家・川上未映子の叫びが隠されることなく存在している。「ブルー・インク」の中に、川上未映子が「春のこわいもの」の中で、幻視した世界の光景を解き明かす鍵が存在していると、私は思う。「ブルー・インク」のフラグメントが〈川上未映子小説宇宙〉の中で拡散し、その声が世界に木霊する。

その声について語る前に、〈川上未映子小説宇宙〉について、幾つかの事柄を話さなければならない。

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No.5:〈川上未映子小説宇宙〉、〈迷路的なるもの〉、その中を彷徨う女たち、そこには暴力と血の匂いがいつも漂う

出口も入口もない迷路的なるもの。始まりも終わりもない迷路的なるもの。その迷路的なるものから脱出しようとする女たち。しかし、その女たちが迷路的なるものそのものであるということ。迷路的なるものとして、迷路的なるものの中を彷徨う女たち。残忍な魔物たちがその壁の影の中で、秘かに待ち伏せし棲む迷路的なるもの。その魔物に見つからないように逃げる込む場所もまた、もうひとつの迷路でしかない迷路的なるもの。さらに、その魔物の正体を暴いてみれば、それがその女たちのひとりであるということ。追う者と追われる者、捕まえる者と逃げる者、持たざる者と持つ者。女たちは地平線の彼方まで広がる境界も涯も出口も入口もない迷路の中を何処までも、走り続ける。その迷路的なるものの外側を夢見ながら。休むことなく傷だらけになり力尽きるまで。

「今まで気づいていなかったけど、でも、こうなるまえからずうっと“あなた”を捕らえていたものが出てくるんですよね。・・・わたしたちは普段、それを見ないようにしているし、忘れていることで希望をつないでいるんだけど、・・・」「それはたぶん、誰もが知らないうちにやっていることかもしれません。みんな、自分が他人にしたことのほとんどを忘れているから。そして、その逆もありますね。」                 (「Real Sound」の川上未映子さんのインタビューより引用)

川上未映子はその〈迷路的なるもの〉の中を彷徨う女たちの姿を、小説によって正確に描く。〈川上未映子小説宇宙〉とは、迷路の中で生まれ、生まれた時から、迷路を彷徨うことを宿命とされた、出口も入口も存在しない絶望と希望の場所で生きる女たちの、その痛ましき彷徨と叫びとその戦いと勝利と敗北の世界だ。そこには暴力と血の匂いがいつも漂うことになる。

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No.6:決壊する、液体となって。/容易く脆く希薄に溶解するように崩壊し洪水となる〈迷路的なるもの〉、誰も逃れることはできない

最新の短編小説集「春のこわいもの」において、川上未映子はその〈迷路的なるもの〉の様相を変容させる。その容赦なき理不尽さがより激しいものとして、出現することになる。小説家・川上未映子は小説という想像力によって現実を切り裂こうとする。幻視者・川上未映子の想像力が炸裂する。

「春のこわいもの」の中では、これまで、〈川上未映子小説宇宙〉の中で描き出されていた、迷路的なるものとその中で彷徨う人々が、崩れ去る迷路的なるものに飲み込まれて行くことになる。あっけなく。まるで、不死の怪物のように変転しつつその姿を変貌させていた頑強なる迷路的なるものが、容易く、脆く、希薄に、溶解するように崩壊して洪水となる。あれほど人々を強固に包囲して閉じ込めていたそれが、これほど脆弱なものだったのかと思う程に。しかし、それは、その中で彷徨っていた者たちを一人残らず巻き込んで行く。その時、人は自身が崩壊して行くそれの一部であることに気が付くことになる。逃げることはできない。誰も。世界が溶けて行く。

「ブルー・インク」のラスト・シーン、「教室」から始まり、「わからなくなっていった。」の否定形で終わる六行と、「昼間の光」から始まり、「できなかった。」の否定形で終わる五行。そして、「娘について」のラスト・シーン、「けれど」の逆接から始まり、「ない。」の否定形で終わる五行。この六行と五行と五行に〈迷路的なるもの〉の〈終末のヴィジョン〉が顕示される。

洪水となる。決壊するように迷路的なるものが。その日、そこに存在する全てを飲み込むために、迷路的なるものが崩壊するように洪水となる。終わりの日の前日。災厄の前日としての今日。最悪のその時の直前としての現在の時間。その眠るような夢の時間の中で、春色の中の青と、青の中の春色で、彩られる〈迷路的なるもの〉の〈終末のヴィジョン〉。

川上未映子の最新の作品集「春のこわいもの」において、〈迷路的なるもの〉である世界が崩壊するように洪水となる姿が〈終末のヴィジョン〉として、幻視される。まるで、それは覚醒したまま見る悪夢のように。それは、新たなる〈迷路的なるもの〉の誕生の瞬間かもしれない。

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No.7:見つけ出して、わたしを。/世界が崩壊する前に。あるいは、〈迷路的なるもの〉の〈終末のヴィジョン〉の中で叫ばれる声

小説家・川上未映子の叫び声。ここに来て、ようやく、その声について語ることができることになる。

「ブルー・インク」。深夜の闇の中で、「失くしてしまった手紙」を探す少年と少女。〈川上未映子小説宇宙〉の中の特権的存在としての闇の中で言葉が失われる。そして、「陽の光に白く濡れた影のない世界のなかに」全てが包まれて行く。「動くことも探し出すことも声に出すこともできず」(「ブルー・インク」P127より引用)現前する〈迷路的なるもの〉の〈終末のヴィジョン〉。

「遠い夏のある放課後、作業を終えてドアをあけようとして取手が回らないことに気づく。その瞬間を想像してみる。何度やっても扉はあかず、叩いても蹴ってもびくともしない。その瞬間のことを想像してみる。破る窓もなく、声の限りに叫んでみてもそれは誰にも届かない。あるのは赤い水と分厚い壁と鉄の扉。自分がここにいることを外部に伝える術はない。どこにもない。出られない。そのうち自分と影と時間と恐怖の区別がつかなくなる。僕は首を振った。」                                                                                     (「ブルー・インク」P109〜110より引用)
「「わからないけど」彼女は言った。「きっと・・・何かが起きたときに、誰かにちゃんと見つけてもらえる人と、誰かに見つけてもらえない人がいるんだと思う。それは、その人がどんな場所にいるかってこととは、関係がないことじゃないかと思う」                    (「ブルー・インク」P110、10〜12行より引用)
「手紙は消えたんじゃない」
再び彼女が言った。
「君が失くして、見つけられなかった」
(「ブルー・インク」P116、3〜5行より引用)

その後、彼女は泣きはじめる。

「それから彼女は泣きはじめた。/最初は静かに目をこすり、それから両手で顔を覆い、肩を震わせて彼女は泣いた。すすりあげる鼻の音に声が混じるようになり、指のあいだからつたった涙が粒になって顎から落ちていくのがみえた。彼女が泣くのを見るのはこれがはじめてだった。僕は何も言えず、泣いている彼女をただ見ているしかなかった。」           (「ブルー・インク」P117〜118より引用)

彼女が泣いた理由は明白だ。「僕」を責めているのではない。誰かを責めているのではない。彼女はその失われた、損なわれた、届かなかった言葉に涙を流しているのだ。見つけ出されなかったわたしに涙を零しているのだ。「一度書かれたもの、残ってしまうもの」としての言葉、それはわたしの一部だ。届くことのなかった言葉。届けられることのなかった言葉。受け取られなかった言葉。失われた言葉。その失われたわたし。見つけられなかった見つけ出すことができなかったわたし。彼女は闇の中でそのわたしの孤独と絶望に泣いているのだ。〈迷路的なるもの〉の中で、損なわれた失われたものに涙が流れる。

小説家・川上未映子の叫び声がそこに刻み込まれている。そして、「春のこわいもの」の始まりに「青かける青」が必然として存在し、その中の一文がその声に応えるものとなる。「青かける青」がこの小説集の始まりに置かれていることには極めて大切な意味が存在している。川上未映子の最新の短編小説集「春のこわいもの」は、〈迷路的なるもの〉の〈終末のヴィジョン〉の中で叫ばれる声なのだ。「青かける青」がそのヴォイスの始まりを告げる

見つけ出して、わたしを。
世界が崩壊する前に。わたしが迷路的なるものに飲み込まれる前に。
生存のために、希望のために。

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あとがき:1:川上未映子さんの「春のこわいもの」についてのインタビュー

あとがき:2:「ヘヴン」の国際ブッカー賞のノミネートについて

川上未映子さんの「ヘヴン」が、2022年の国際ブッカー賞の長編小説リスト13冊の中の一冊として、ノミネート入り。最終候補の6冊は4月7日に発表され、5月26日に受賞作が決まる。

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国際ブッカー賞(The International Booker Prize)はイギリスの文学賞。ブッカー賞の翻訳部門として2005年に創設され、2019年から現在の名称に変更された。外国語(英語以外の言語)で書かれ、英語に翻訳され、英国で出版された小説が選考対象となっている。毎年受賞作品が選考され、作者と英語への翻訳者の共同受賞となっている。

私自身は、その作品が、その作者が、何かしらの賞を受賞しているか、否かなど「どうでもよいこと」でしかない。さらに、その作品が商業的に世界的な成功を収めた優れた商品であるか、否か、それも同じことだ。だってそんなことは何処まで行っても、「結局、それは他人の評価でしかない」からだ。歴史ある高名な権威ある賞であっても、世界中の人々がそれを賞賛し買い求めていても、そのことは変わらない。私自身にとってその作品がどれだけ私のこころを揺り動かしたのか、それが総てだ。その受賞と商業的成功が私のこころを動かすことはない。

急いで書き添えるが、それはブッカー賞が信頼するに値しない賞であるという意味ではない。ブッカー賞が如何なる賞であるかはその受賞作のリストを見れば直ぐに分かる。また、作品の世界的な商業的成功がその作品の凡庸さを必ずしも意味するものでもない。私がここで述べていることは、あくまでも私と作品と賞と商品の間の基本的な関係についての話である。世界には商業的には残念ながら無惨な敗北を喫した、無冠の偉大なる美しき作品と作者に溢れている。無冠であること、商品として敗者であること、そうしたことなど、私にとっては「どうでもよいこと」だ。誰も私と作品との遭遇を妨げることはできない。

しかし、仮に、その受賞がいままでその作品を知ることのなかった手に取ることがなかった人に読まれる契機となるのであれば、それはよきことかなと思う。国際ブッカー賞のノミネートがきっかけで、この美しいから怖ろしいのかそれとも怖ろしいから美しいのか判然としない、あるいは、怖ろしく、且つ、美しい小説である「ヘヴン」がより多くの人々に読まれることになれば、それはこの小説に深くこころを奪われた読み手のひとりとして、とても嬉しいことだ。「うれぱみん!」(「ヘヴン」の中の言葉より)

「ヘヴン」については、いつか、一文を書いてみたいと思う。私なりに。私がこの小説のその美しさと怖ろしさについて書くことができるのであれば。

2020年に小川洋子さんの「密やかな結晶」(「The Memory Police」)が、国際ブッカー賞の最終候補6作に選ばれた。残念ながら受賞とはならなかったが。「密やかな結晶」は小説という想像力が持つ力とは何かを知らしめる傑作。言葉が、小説が、何を行うことができるのかその可能性の極限が静謐にして透明なる沈黙の言語として示される。これもまた怖ろしく美しい作品

もし、よろしかったら、川上未映子さんの「ヘヴン」と伴に、小川洋子さんの「密やかな結晶」も手に取って読んでみて欲しい、と私は思う。二冊とも文庫版があり手軽に入手できる本だ。但し、それは決して軽い本ではない。

あとがき:3:小説の肉体の欠片としての短編小説の名前、あるいは、「必要になったら電話をかけて」(レイモンド・カーヴァー)

短編小説に付けられている名前はそれ自体がその小説の一部を成している。読み手はそのタイトルを入口として、その小説世界に没入して行く。だから短編小説の名前はとても重要なものだ。と私は思っている。そして、それはその小説の世界全体を包み込む言葉としての長編小説の名前の意味とは大きく異なっている。

短編小説の名前は、その小説からはみ出してしまった小説の切れ端であり、小説の中に取り込まれることなく残された言葉であり、その言葉たちを入れた袋に仮の印として走り書きされたメモであり、それは切実で切迫した生の時間の断片だ。

川上未映子さんの短編小説にもそのことが鮮明に表れている。少しだけ、三冊の短編小説集から幾つかの名前を挙げてみたいと思う。そして、その並べられた名前の素晴らしさに酩酊することにする。

「春のこわいもの」の中の、その色彩とその声が反響する「青かける青」×「ブルー・インク」。レイモンド・カーヴァーの短編の名前「必要になったら電話をかけて(Call If You Need Me)」を思い起こす「淋しくなったら電話をかけて」。「愛の夢とか」の中の、揺れ動く漫画の記憶から零れ落ちる「アイスクリーム熱」、「いちご畑が永遠につづいてゆくのだから」、「日曜日はどこへ」、「十三月怪談」。「ウィステリアと三人の女たち」の中の、映画の記憶/記憶の映画から抽出される、それはジャン=リュック・ゴダールの映画の題名と錯覚してしまうような「彼女と彼女の記憶について」、「マリーの愛の証明」、「ウィステリアと三人の女たち」

短編小説の名前。そこにはその小説の血の一滴が存在する。それはその小説の肉体の欠片なのだ。川上未映子さんの短編小説の名前には、小説の身体が息づいている。





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