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なぜ「幸せ」について考えて、文章を綴るのか?

みなさんこんにちは、あなたをモチベートです。
今回は、私が普段どうして「幸せ」について発信をしているのかということを少し知っておいて頂きたいなと思って、文章を書いています。


Why

まず、個人的にどうして「幸せ」に関心を持っているのかという話を。

私は、「幸せ」は人が生きるという言葉の一番近くにいてほしい言葉だと思っています。例えば、楽しい人生とか、愛に満ちた人生、そんな生き方をすべて内包しているような、短い単語なのに意味はほぼ無数に持っているような、自在に形を変えていきながら人生を彩る言葉が「幸せ」なんです。

「幸せ」は人生におけるあらゆる目的を突き詰めていった最高次の概念だという考え方があると思いますが、すべての人の人生にとって「幸せ」が全てかと聞かれると、そうでもないかもしれません。しかしながら、ある人が自分の人生に対して肯定的な感覚を抱いているとき、間違いなくその状態を「幸せ」と呼ぶことはできるし、そのような「幸せ」は10人いたら10人それぞれにとって違う形で、そして365日生きていたら一日一日異なる形で立ち現れ、人生の最期を迎えるまでの活動を、充実させ続けてくれるはずです。

ところで、「幸せ」は単なる言葉です。人間が持つ〈言葉〉という道具は、とても便利な反面、あくまで道具でしかないので、この〈言葉〉という飛び道具を手にとって何か建設的なことをしよう、創造的なことをしようと考えても、ある閾値まで行って、そこからは飛び出さないんですね。つまり、〈言葉〉を使って「幸せ」の概念を捉えようとしても、その寸前までは探求することができたとしてもあと少しのところで〈幸せ自体〉にはたどり着かないんです。

For What

なので、ある意味、私たちが「幸せ」について〈言葉〉をこねくり回して頑張ったところで、本当の意味での「幸せ」は分からずじまいでしょう。それでも、「幸せ」という言葉が私をこれでもかというほど惹きつけ、仮の〈言葉〉を綴り続けさせるのはなぜなのか、それは、暫定の〈言葉〉としての「幸せ」であったとしても、人の求めるものを総て内包した概念であるところの「幸せ」を、世界の人々が希求し続けているからです。

〈言葉〉には、不思議な力があります。〈言葉〉は、私たちの生活に溶け込み、文化に溶け込み、そして価値観に溶け込んでいます。〈言葉〉は、私たちの理性を助け、本能的な脳の不安を抑え込むこともあります。では、〈言葉〉の不思議な力とはなにか?ーそれは、有限性と際限のない可能性という矛盾した二項の止揚がもたらす、活動選択の自由です。

私たちの日常の中で、身体活動をしている感覚として、「幸せ」を感じるとき、〈言葉〉は「幸せ」にも溶け込んでいます。例えば、私たちが家族と新年を迎える瞬間に、言語的な理性で、家族と過ごせる幸せを捉えられているなら、そのとき私たちは幸せでいられます。幸せでいられるのは、人間関係は幸せのもとだということを言葉として知っているから・それが感覚に落とし込まれているからです。

幸せとは何か、幸せに気づくためには・より幸せになるためにはどうしたらいいかということを、暫定的でもいいから理性を通して、〈言葉〉を通して、Note を読むことを通して考えていけたなら、幸せへの感度は変わってくるんです。

先程、〈言葉〉の不思議な力として、〈言葉〉が表せる意味は限定的であるが、それと同時に、例えば〈言葉〉として「幸せ」を考えたとき、なんらかの身体活動にともなって幸せな感覚を得ることを「幸せ」として、具体的な「幸せ」の事例を生活実践の中から探そうとしてみると、とても数え切れない広がりを持つ「幸せ」の海が現れる。その「幸せ」の海を泳ぐために、「私たちの誰もが(感覚をつくる)身体活動を選択する自由を持っている」ということを知って、「幸せ」の海を泳ぐための暫定的な知識を得ていくようにするのがいい。

ということをかなり省略して紹介したんですが、簡単に言うとこんなことを〈言葉〉を使ってみなさんに届けられるように、Note で「幸せ」について文章を書き続けています。「幸せ」とは多分こんな概念で、それぞれの人が主観的に持つ「幸せ」の感覚を、身体活動を通して得ていくためには恐らくこのようなアプローチを取っていくといいよ、ということをみなさんに伝えていきたいんです。そして、このアウトプットを通して私自身も「幸せ」について、人間・あるいは自分自身の人生について理解を深めていっています。

Inclusion

ということで、私が「幸せ」について考えて Note で発信を続けているのは、人生の一日一日を彩る「幸せ」の概念に個人的に興味があって、その「幸せ」の実践について理解を深めてみなさんと共有していくことで、私もみなさんも、より「幸せ」になっていけるようになってほしいから。

「幸せ」が人間の人生を鮮やかにすることができるものであるならば、例えば私が色々なプラットフォームを通して発信活動を続けることで、本当にたくさんの人のお役に立てる、一番根っこの部分を手助けできるものだと思うので、その意味でこの「幸せ」というテーマに大きな可能性を感じています。私が仮に「幸せ」という概念と実践に一番近づいたとき、最も意味のある活動を成し遂げた人生になると思うんです。

なので、DNAに埋め込まれた、そして生まれ育った環境に埋め込まれた、今まで関わり合った人たちと共有した時間に埋め込まれた、今まで感じてきたこと、考えてきたこと、してきたことに埋め込まれたこの生を、選択可能な自由の範囲の中でより力強く、より鮮やかに 広げていく。そのために今後もNote に文章を綴っていきたいと考えています。

最後まで読んでいただきありがとうございました!今回は、何を言っているのかわからないという部分が多かったと思います。本当にすみません。直近の4つ分くらいの記事を読んで頂けたら、少しだけ理解が深まると思うのでぜひご覧になってみてください。

今回は自己紹介的な記事でした。では、またお会いしましょう!

↓幸せとは?幸せに生きるためにはどうしたらいい?の図解

あなたをモチベート。の考える「幸せ」のモチーフ(活動と感覚)
「幸せ」というのはそれぞれの人にとって、そのときそのときで違った形の「身体活動と感覚」のこと。身体の〈活動と感覚〉が充実しているかしていないかには、身体のコンディションが大きく関係しているという原則がある。また、人にとって、他者との関係性が重要である。
「幸せ」に生きるためには、自分が「幸せ」な〈感覚〉を得るための〈活動〉を自ら選択していかなければならない。その能力が人間には備え付けられている。そのためには自己理解が必要となるし、活動する時間、休む時間、最優先事項の優先などを意識していく必要がある。また、他者との関係性の中で、より良い関係性を主体的に築いていくために、他者理解が必要となるし、そのような日常生活を通して、感覚の〈慣れ〉とどう向き合っていくかということが重要となる。人は、喜ばしい感覚を得て、その後もっと大きな程度の幸せな感覚を得ることができたならその直線の傾きを察知し、満たされていると感じる。しかしながら、2点を結ぶのが水平な線であった場合、感覚の〈慣れ〉から、幸せな感覚が逓減させられてしまう。このとき重要なのが、「Three good things」を用いた感謝の習慣である。自分の生活において満たされている部分を見つけようとすることで、小さな幸せを感じ続けることができる。また、生きていく中で、辛いことや悲しいこと、思い通りにいかないことなどもたくさんあると思う。その中で、「ジャーナリング」を通して、自分のモヤモヤする気持ちを単なるモヤモヤから言語化された自分の内面とすることで、生きづらさは減っていく。最後に、小さな達成感を積み上げることは人生を前向きで幸せなものにしてくれる。なので、難しいことはしなくていいので、箇条書きの「To do リスト」の活用をオススメしたい。「Three good things」「ジャーナリング」「To do リスト」という3つの書く習慣を身につけることで、日々幸せな活動と感覚を主体的に選択していくことができる。

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