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脱学校的人間(新編集版)〈84〉

 ある方策や手段に従って、その通りにすれば自分たちもきっと幸福になれるはずなのに、しかし自分自身の力では、どうしてもその通りのことができないような環境に置かれた者たち。そのような方策や手段、そしてその先にある幸福を知らぬままでいられたのなら、ひょっとしたらそのことに不幸を覚えなくとも済んだかもしれないのに、しかし幸か不幸かそのことを思いがけず知ってしまった者たち。
 そのような、幸福であることから我が意に反して遅れをとってしまっている者たちは、すでに幸福だった者たちより「常に遅れているもの」と見なされ、自分たち自身としてもその遅れを常に自覚せざるをえない立場に置かれ続ける。この差はなかなか実際には埋め合わせることができないものであろう、彼ら「遅れている者たち」が「自分たちよりもさらに遅れている者たちを見つけ出す」ことができるようになるまでは。そして、そのような「自分たちよりもさらに遅れている者たち」との差を見つけ出して、それによって「自分たちは、少なくとも彼らよりは幸福だ」と感じられるようになるまでは。しかしそうなればきっと、それはそれで彼ら自身の「欠如感」は大いに慰められることにはなるのだろう。
 実際そういった形で生じることになる「差そのもの」は、常に何らかの形でどこかに必ず「構造的に生じている」ものなのである。そして「必ず構造的に生じる」ということは、「その構造の中で誰かが幸福だと感じるためには、その逆に不幸な人々の存在が、是が非でも必要になる」ということでもある。ある人々が「不幸な境遇から抜け出した」としても、それでもなお「不幸と呼ばれる人々」は、常にどこかに必ず存在するところとなる。つまり彼ら不幸な人々とは、「人々が幸福であるために、構造的に必要とされている存在」なのだ。
 もちろん、不幸な境遇にある人々が「どうしても幸福になりたいと思う気持ち」を、誰にも止めることはけっしてできないし、誰にもその権利はない。彼らが自分自身の不幸(=欠如)を埋め合わせることで幸福だと感じることができるというのであれば、それはそれで彼らは現実として幸福であると言えるのだろう。たとえその幸福は、不幸=欠如の転倒にすぎないものであったとしても。
 また、彼らの不幸=欠如を利用する者らが、彼らに「それしかない幸福という基準」を押しつけているのだとしても、彼らが実際にそれを幸福だと感じる限りは、その幸福を奪うことは誰にもできないし、誰にも許されない。たとえ「実はそれさえもが他の誰かに利用されているだけのこと」だったとしても。

 あるドキュメンタリー映画に、このような場面があった。遙かな険しい山道を越えて学校に通う孫娘に、文字を知らず本も読めない老婆がこう言う。
「お前はしっかり勉強して、よい暮らしができるようになりなさい。けっして私のようになってはいけないよ」
 すでに余生も知れているであろう老女に、このようなことを言わせてしまう「幸福」とは一体、どれほどの価値があるものだと言えるのだろうか?彼女の人生にだってたしかにあったはずの、そのささやかな幸福な日々でさえ、あたかもなかったことにしてしまうような「よい暮らし」なるものが、一体どこの誰にいかなる幸福を与えることができるものだと言うのだろうか?

〈つづく〉


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