労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈11〉

 自分で自分自身を売るということ。そのように自分自身を商品として売らなければならない人間すなわち「労働者」は、「もしそうであるならば、できればいっそ自分自身をより高く、なおさら価値のあるものとして売りたい」と誰もが思うことだろう。「自分自身はそれほどの価値を持った商品なのだ」と、労働市場において誰もが精一杯アピールしたいところであろう。
 しかし、繰り返しになるがそのような「価値」とはあくまでも、「誰か他人に買われて使用されることによってはじめて生じる」ものなのである。逆に「前もって」そのような価値が、商品としての自分自身に含まれているなどと考えるとしたら、それは「商品自身の傲慢」以外の何ものでもない。価値を「商品の買い手に押しつける」というやり口は、全くもって「押し売り」に他ならない所業ですらあるのだ。そこまででなくても、「こうしたら売れるだろう」という思惑が、売る側の一方的な都合であることに弁明の余地はない。しかしそんな売る側の都合に制約されるというくらいなら、一体どこの誰がそのような商品を買いたいと思うのだろうか?

 労働力商品である一個人の、「彼自身の価値観念は、常に彼自身とは無関係な要因、市場の気まぐれな判断にもとづいているものであって、商品の価値を決定するのと同じように、それが彼の価値を決定する」(※1)とエーリッヒ・フロムは言っている。そして、「もしある人間の持っている性質が役に立たなければ、その人間は無価値」(※2)なものであると見なされることとなる、それは「ちょうど売れない商品が、たとえ使用価値はあっても何の価値もないのと同じである」(※3)とバッサリ切り捨てる。
「…市場で高く売れない全ての商品と同じように、彼の商品価値がかなりあっても、交換価値の関係する限り価値のないものなのである。…」(※4)
 しかし、「売れない」のであれば、結局「彼の商品価値」などというものは、「かなり」も何も、「そもそもない」のであり、要するに「売れない商品は、そもそも商品ではない」のであり、またもちろん「そのような商品には、使用価値もない」のだ。商品として売れないのならそれは「誰にも使用されることがない」のだから。そこで「役に立たなければ売れない、それはすなわち無価値な代物である」という評価は、それが商品に対するのである限り、きわめて正当なのである。

 「商品所有者は、誰も、自分の商品の私的価値をおしつけることができない。商品の価値は”社会的”である」(※5)と柄谷行人も言っているように、商品あるいはその商品の売り手は、自分自身でその商品の価値を高めることはできない。「ある一つの商品の価値」はつねに、「他の商品によって決定される」ものなのだ。
「…商品は、他の商品と等置されることによって、はじめてその価値をもつ…。」(※6)
 「商品の売価」は市場において、その市場に存在する「他の商品とのかねあい」において決定される。「ある一つの商品」は、市場において「商品として史上はじめて、その市場に持ち込まれ売られる商品」であるわけがなく、「すでに存在する商品たち」の中に持ち込まれ、その中で売られるのである。だから商品は、すでにある他の商品を無視して、「独自の売価」をつけることはできない。むしろそのような商品こそ、市場から無視されるだろう。
 そしてもし、ある一つの商品がその他の商品と同じ程度の使用価値があり、その他の商品よりも安い価格で買うことができるのであれば、「その商品の価値は、その他の商品よりも高い」と言ってもよいことになるだろう。それは、「その他の商品に比べて使用価値の高い商品が、その他の商品と同じ程度の価格で買うことができる」のと同様の意味で「価値が高い」ということである。しかし繰り返すが、これは「商品自身」には決定できないことなのだ。
 だからもし、仮に「自分自身を高く売ろう」などと考えて、さまざまな「努力という投資」の結果、自分自身という商品の売価が「原価割れ」を起こしたとしても、その商品の売り手すなわち労働者は、何の文句も言えない。労働者は「労働力の価値に関して、労働市場での価格に従うほかない」(※7)のであり、もしそのことに不満があるのならば、「自らへの投資をやめるか、あるいは自らを商品として売らないか」のどちらかしかないのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 フロム「正気の社会」
※2 フロム「自由からの逃走」
※3 フロム「自由からの逃走」
※4 フロム「正気の社会」加藤・佐瀬訳
※5 柄谷行人「探究Ⅰ」
※6 柄谷行人「世界共和国へ」
※7 柄谷行人「世界史の構造」

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