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脱学校的人間(新編集版)〈85〉

 イデオロギーであれソリューションであれディシプリンであれ、あるいはセオリーであれルーティンであれエートスであれ、そうする以外に何も考えられなくなるようなこと、ゆえにそうする以外に何もできなくなるようなことが、しかし現実としてそれがもはやいささかもできなくなってしまうようなときに人は、それと同時に自分のしていることいっさいの意味と意義をも失うこととなる。自分自身のしていることいっさいの意味や意義が失われるとき、人は自分自身それ自体の意味や意義をも同時に失うことになる。ゆえに人はそのとき、自分自身そのものをも同時に失うことになるのである。
 人は誰もが、自分のしていることには意味があると思いたい、あるいは自分のしていることは役に立つものであると示したい。しかし人は別に、そもそもそれが何か「意味があるから」とか「有用であるから」とかいった理由でそれをしはじめたのだというわけでは全くなくて、むしろ「自分自身としては、そうすることの他には何もできない」からこそ、その自分自身が現にしていることについては、何らかでも意味を持たせようとしているだけなのであり、それがたとえ少しばかりでも社会に有用なことであるかのように、他の人に向けて示そうとしているだけなのである。
 もしも自分自身としてそれしかできないようなことについて、社会的には全く何の意味も有用性もなさないのだともなれば、彼はもはや社会的な意味合いで、全くの「無」でしかないだろう。そして社会的に「無」であるということは、ただ社会的に何の意味も有用性もないというばかりでなく、「彼は何の意味も有用性もないようなことをした」という事実でさえ、社会的には全く何もなかったということにされてしまうのである。ということで、彼にとって「無」とは全く比喩に終わるものではなく、「それのみが事実として残る」ようなものなのだ。

 しかしそれでも人は、たとえ自分自身が「何もできない」と思っているときでさえ、実は「何もしないではいられない」ものなのである。なぜならそれが「生きているということ」だからだ。ただそれがしばしば「必ずしも自分の思惑通りにはいかないこともある」というだけの話なのである。
 ところがこれが転倒して、自分の思惑通りのことができないようなときに人は、「自分は何もできていない」と感じるものである。ひいては「自分はそもそも生きてさえいないのではないか」とさえ感じられるようにまでなる。しかしこれは、明らかに倒錯である。だから人間は、もし自分自身として生きていこうと思うのであるならば、せめてこの倒錯からはしっかりと目を覚まさなければならない。
 たとえ何一つ自由にできないようなときにでも、それでも何かをせずにいられない自由が、人間にはある。たとえ何か語りえぬものを前にしたとしても、それでも人間は沈黙などしてはいられない。そのような必然性の発露にこそ、人間の自由はあるのだ。そしてこの自由は、けっして他から与えられたものではなく、自ら得るものとして、つまり「能動的なもの」として自由なのであり、「するべきことや、できることとして特定されてなどおらず、かつ特定することもできない」という意味においても自由だということなのである。
 そしてそのとき人間は、その能力の有無優劣に何ら関わりなく、それぞれに過不足なくその必要に応じて、かつ必然性をもってその何かをするし、今このときにおいてすでに現に、その何かをしているものなのである。それを妨げるようなものは何一つとしてないし、なおかつそれはけっして妨げうるものではない。
 また、この自由が「過不足なく必然的である」ということは、それによって誰か他の者が不利益を被ったり、あるいは何らかの不満を覚えたりして、その責任の所在が問い質されることとなるような、何か他の者において有害となり悪なる結果を生じさせるようなことも、けっして起こりえない。もし仮にそのような結果に至るものであったとしたならそれは、結果として何らか必然性を欠いていたのだというのに他ならない、すなわちそれは「結果として何ら自由ではなかった」ということであるのにすぎない。
 そこでもし、「いや、たとえそうであったとしても、自分の思惑通り自由にできるようなことが何もなければ、人はいささかも自由であることなどできないのではないか?」と問う者があるのなら、いずれはその者も、多少なりとも何らか自由になるようなことがあったとして、しかしその者はおそらく、何一つとして自由を感じることはないのだろう。「すでに現に、そして常に自由である」というのに、その自由をいささかも感じられない人間は、たしかに不幸以外の何ものでもないということなのだろう。

 ここであらためて問うことにしよう。「ある特定の何か」をやり続けていなければ生きていくことができないような社会が、しかしもはやそれ以上維持していくことができなくなったとき、はたして人は、もはやそれで本当に、自分自身も生きていけなくなることになるのだろうか?
 しかし人はそれでも、「その現実から、あらためて生きはじめる」ことになるだろう。「その現実からあらためて学びはじめる」ようになるだろう。何しろ人というものは「そもそもそうしてきた」のだし、そして「常に現にそうしている」のだから。
 人は、たとえ何も学びたくなくても、それなりに何かを学んでしまうものである。たとえもはや生きてはいけなくなったとしても、よってもはや生きていたくはなくなったとしても、少なくとも「そう思っている瞬間だけは、人はすでに現に生きてしまっている」のだ。それがすなわち、「人間」というものなのである。

〈つづく〉


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