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脱学校的人間(新編集版)〈54〉

 学校を経由して社会に送り込まれてくる人々は、「それぞれ自分自身としては何者でもないがゆえに、むしろだからこそ何者にでもなれる、社会的に自由な個人」である。その意味で彼らはたしかにそれぞれ「自由」なのだが、しかしそのように「何者でもないがゆえに自由である」という限りでは、むしろ彼らには何の個性もない。
 彼らがそれぞれに個性を獲得できるのは、その自由と引き換えにそれぞれ何者かになることによってだ。つまりそれぞれ何かの社会的集団に属し、その社会的集団において割り当てられた役割を担い、それによってそれぞれ「自由であることをやめる」ことで、人ははじめて社会的な意味で何者かになれる、言い換えれば社会的な意味においての個性を持つことができるのである。
 また、人が「何者かであることができる」のは、「それが何者かとして社会的な承認を受けている限りにおいて」の、あるいは「そのように社会的認識を獲得している限りにおいて」の、「社会的に一般的な何者かであることにおいてである限り」であり、そのような「一般的な何者か」になるのでなければ、人は自分自身の個性を何ら実現することができないし、またそのような自分自身の社会的自己実現において、それが「社会の役に立つ」というのでなければ、その人の個性も全く「社会的には承認されえないもの」にしかならない。
 だから人は自らのものとして、社会的に承認されうるような個性を選択する必要があり、その個性の実現において自らは社会的に機能するのだと社会的に証明することが、その人に課せられた「社会的な義務」となるわけである。

 平野啓一郎は、「私たちには職業選択の自由はあるのだが、しかしそれは同時に職業選択の義務としても生じてくる、なぜなら私たちの社会は必要に応じて様々に機能分化し、誰かがその役割を担わなければ不都合が生じてくるからだ、ゆえに社会は、職業を選択しそれに従事する義務を果たさないような人間の『個性』については、これをけっして承認しようとはしない、なぜならそれは社会的な分業の一環として役立たない個性だからだ」(※1)と言っている。ここで考えられる社会的な意味においての個性というのは、あくまでも社会的な有用性にもとづいて判定され、社会的な生産力としての「義務」を果たすことによってようやく認定される、というようなものなのである。
 自分自身の保有している個性が、はたして社会的に意味があり価値があるものであるかどうかは、その個性が「社会的に要請される役割を担えるものであるかどうか」にかかっている。それを担う限りで彼の「何者にでもなれる自由」も社会的に承認されうるのだ。そして彼が実際「何者になりうるか?」の選択肢は、実に多種多様なものとしてあらかじめ用意されている。もちろん、いずれもそれが「社会から要請され、社会に承認されているもの」である限りにおいての話ではあるが。
「…職業の多様性は、元々は、社会の必要に応じて生じたもので、色々な個性の人間がいるから、それを生かせるように多様な職業が作られた、というわけではない。(…中略…)そして、職業の多様性は、個性の多様性と比べて遥かに限定的であり、量的にも限界がある。…」(※2)
 しかしやはり「職業に比べて多様にある個性」といったところで、それもまた社会的に認知されている限りにおいての、つまり「それが個性であると社会的に認識され、なおかつ社会的に承認される限り」においての多様性であることについては、その限定的な側面は「職業の多様性と、質的に大した違いはない」のだと言えるだろう。誰であれ、そして何であれ、その個性はそういった条件の下に成立する多様性に合わせて限定されていることには何ら変わりがないのだ。そもそも、そのような多様性の中から「ある一つの個性」あるいは「ある一つの職業」を選択した後においては、「その他の個性」あるいは「その他の職業」がいかに多様であろうとも、それがはたして自分自身の個性に一体何の関わりがあるというのだろうか?

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 平野啓一郎「私とは何か」
※2 平野啓一郎「私とは何か」


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