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だが、カヲルはいい

「騙したね」
ロロは続ける。
「ロミオとジュリエットだって?」
「はい?」
「ヱヴァ。カヲル全然出てこなかった」
 
ロロが言うには、『エヴァンゲリオン』はシンジとカヲルによる現代版SFロミジュリだと私が説明したらしい。私の記憶ではそんな感じだった筈だが、ロロが言うにはあれは現代版SFオイディプスらしい。「だが、カヲルはいい」ロロは断言した。
 
小学生の私はエヴァの描く「不完全な大人」が好きだった。同時期に夏目漱石の「こころ」にのめり込んだ原因もそこにある。私のまわりの大人は子どもの前で強い存在であろうとした。少年少女の悩みなどすべて克服したようなタフな存在、その姿は幼い私にとって重圧だった。自分はそんな大人になる自信が無いし、今の私の弱さという個性が失われてしまうことも怖かった。タフという均一な大人になることへの恐怖、同時に幼く弱い自己への嫌悪感が、小さな心を覆っていた。そんな中、物語の中の不完全な大人の弱さは、私にとっては希望だった。
 
大人になった私が今でも積極的に物語に触れる理由はそこにある。物語には必ず人間の弱さが内在するから。それは北斗の拳にも、ケルアックの文学にも、映画「沈黙」シリーズにも、必ずある。
 
今の私は人の弱さを美しいと思う。その弱さに私は救われているし、強さに傷付けられてもきた。
 
強者弱者に優劣はない。強者が生きやすい世の中であることは確かだろうけど、強者にしか救えない人、強者故に傷付けてしまう人がいるように、弱者故に傷つけてしまう人、弱者にしか救えない人もいると思う。そんな話をしたら、ロロはこう言った。

「24時間悪事を働く悪人はいないし、24時間善行を働く善人もいない」
 
ロロは、時に、良い大人だと思う。
その後二人でBL文学の話題に花を咲かせた。

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