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心の哲学における私の仮説
心の哲学についての私の仮説。
ー意識の現前には何も存在しない。意識の背後に器官なき身体(欲動)が、宇宙(法則)が、超越(偶然)が存在する。立ち現れる現象の中で、質と量は重ね描かれている。ー
認識論から出発した時、私は私というフィルターを通した世界しか見ることができません。その世界を「現象界」と呼びます。ですから、身体や物質や他者も私の現象界の中に存在します。しかし、意識が単にその表層的なものだ
進歩史観よりも構造主義ーないものねだりではなく、すでにあるものを見つける視座ー
世界全体を総合的に見ると、世界の徳は進歩しているわけではなく、メリットとデメリットが形を変えているだけで、構造そのものは何も変わっていない。
だから、僕は社会変革に関心がない。社会は自ずと変化する。それをただ冷徹に眺める。むしろ、僕自身は、愚痴や不平不満よりも、今この日常から幸福を抽出する方に意識を向ける。どんな環境であっても。それは普遍だから。
デタッチメント、ノンポリ、これは社会人として良
現実(Actuality)とは何か
現実(Actuality)とは何か。
実在(Reality)は、認識する主体=「私」に属する。現実(Actuality)は、認識される対象=〈私〉に属する。
身体は、「私」と〈私〉の媒介である。身体は世界に属する。
〈この現実〉は感覚に属するが、〈あの現実〉は推論に属する。
世界は感覚と論理を「私」に付与する。
「私」(実在)は、身体(世界)を媒介として感覚と論理によって現実〈私〉を認識
自分の考え方はここ一年でもだいぶ変わっているので、過去の記事は私の中では過去の産物のあるものも多い。一度整理したいとも考えている。
普遍的な善悪や意味の不可知なこの認識世界において、生涯を全うするその時まで、実存の拭えない苦を軽減させるため、心身を鍛えることこそ人生の唯一の意義である。