人間愛(エゴ)

不可知論者だが、あえてこの世の理を描出することを仮説として試みるならば、この世に究極的な意味はない。人類が存続すべき意味もまた人間のエゴの中にしかない。

人の子はみな承認欲求の塊の赤ちゃんだが、大人は知恵と力によって武装した赤ちゃんである。乳児は無防備に泣くしかできないが、大人は鎧を着て警戒し、武器を持って振り回す。それゆえ人は傷つけ合う。

人間はどこまでも弱く愚かで利己的な生物である。だから利害一致して助け合う必要があった。

倫理や道徳は、そんな人間同士が生き残るための傷の舐め合い(情)である。この星や他の生命のことはあくまで人間中心に人間の延長でしか配慮されない。

それが愛(エゴ)である。愛(エゴ)に生きることが実存と呼ばれる。愛(エゴ)を否定することは生命力の否定だからタブーとみなされる。

神は赤ちゃんにとっての親を世界に投影した幻影、あるいは親の表象を自身に内在化した幻影である。これこそ永久に叶わぬ承認欲求の対象(絶対的他者像)である。

それゆえ、生きる限り寂しさと不安が消えることはなく、苦しみや戦いが消えることもない。

究極的な倫理が人間社会で成り立つとすれば、それは武装を解除し、赤ちゃんに戻って、人間の愚かさを許し合う(傷を舐め合う)ことだろう。しかし、人間の愚かさそのものがこれを阻み、達成し得ない。かつて人間が、知恵や力や道具を上手に使いこなせたことがあっただろうか。

この世の見かけ上の構造は常に変化するが、本質的な構造は変化しない。だから、人間の本性に進歩も後退もない。歴史は変化しつつ繰り返す。

しかし、知恵と力(技術的進歩)によって膨張しつづけた赤ちゃんは、いつか人類もろとも我が身を滅ぼしかねない。

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