進歩史観よりも構造主義ーないものねだりではなく、すでにあるものを見つける視座ー


世界全体を総合的に見ると、世界の徳は進歩しているわけではなく、メリットとデメリットが形を変えているだけで、構造そのものは何も変わっていない。

だから、僕は社会変革に関心がない。社会は自ずと変化する。それをただ冷徹に眺める。むしろ、僕自身は、愚痴や不平不満よりも、今この日常から幸福を抽出する方に意識を向ける。どんな環境であっても。それは普遍だから。

デタッチメント、ノンポリ、これは社会人として良くないという風潮もある。しかし、大半の人は実質そうだ。ただニュースを眺めて分析しているだけ。関心のあるふりをしているだけ。SNSで愚痴を吐くだけ。本気で変えようと具体的に活動をしている人は少ない。選挙、デモ、どこかそれを冷ややかに見ている人が大半だ。それは僕たちは進歩史観よりも構造主義が身に染みているからだ。だから縄文時代は一万年も続いた。進歩史観は、ここ百年で身につけた西洋の思想に過ぎないから、どこか嘘くさく感じているんだ。

正しさを主張すること(そんなものが果たしてあるかは疑問だが)よりも、今を受け入れて、その中に幸せを見つけ出せる方が、よほど健全で、生きる上で大切な思考だと思う。SNSでの社会変革、相互監視社会、不毛な議論、スキャンダル叩き、加速主義、それの何が美徳なのか。頭を冷やした方がいいと思う。

体制批判はたぶん永遠に続く。永遠に女は男の愚痴を言い続けるし、永遠に大統領や首相は嫌われ者。永遠にいじめや差別はなくならない。抜本的な解決なんてしない。形を変えるだけ。表面から見えにくくして隠すだけ。何も進歩しない。国民は無責任に、日頃のストレスの憂さ晴らしを撒き散らしているだけ。現実逃避。自己受容とは、世界を冷静に客観視しつつ、世界と運命を受容することであり、その中で適応し、今の幸福を見つけ出すこと。

自分たちで自分の首を締めて、周りの首も同じくらい締めつけて、余計に生きづらくしていることに気づいた人たちから、幸せになっていく。周りを幸せにする。

ないものを喘ぎ求める。これが精神の病の真相。内にすでに変わらずあるものを外に求めること。すでにあるものに気づかない。貪欲、嫉妬、競争、不平不満、論争、そういうのに支配されるのはこの視点が欠けている。僕たちはすでに豊かである。傷がうずくから傷にしか意識が向かない。みんなないものねだりしている。闇の中にも光はいつも輝いている。君の中にもそれはずっとある。太古の昔から。

すでに豊かなのに、その幸せに気づけないのは、豊かすぎて感覚が麻痺しているから。当たり前だと思ってしまっている。感覚が鈍いから、もっともっとと外に完璧な刺激を求めて、良いところが見えなくなっていく。金持ちの家のやる気がない子供と一緒で、贅沢なんだよね。恵まれていることにすら気づけていない。強者なのにも気づけていない。加害者なのにも気づけていない。自分は哀れな被害者だとずっと泣いている。その感覚の麻痺を回復しないと強くはなれない。

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